おもう川の記 No.37 阿武隈川の7

阿武隈川の舟運について引続き述べる。
この川の流域に領地を持つ外様大名家の、思いもせぬ突然の直系断絶から、阿武隈川の舟運は始まった。と言う歴史の偶然を、直前の稿で一気に述べてしまった。
そこで、今日はその後始末を兼ねた整理補充記事である。
阿武隈川中流域の舟運が寛文4年(1664)から始まったことは、きのう述べた。
中流域とは、具体的に福島から下流にある水沢・沼上河岸の間を言う。
ここを運航する舟は、小鵜飼舟と言い。後に小鵜飼舟を最上川に導入する際、この地から船体建造技術者・運航指導の船頭などが、最上川地区に派遣された。
ここで、阿武隈川流域の舟運の全体像を俯瞰しておこう。
下流域(=太平洋への河口である荒浜〜水沢・沼上河岸の間を指す)の舟運開始は、寛永年間(1624〜44)であった。
運航に使用された舟だが。高瀬舟とヒラタ舟<漢字1文字は、扁が舟・旁は帯から成る>とが対立する状況であったとする説がある。因みに、この区間は、伊達氏・仙台藩領である。
残るは、上流域の舟運開始だが。グンと遅れて、幕末は安政3(1856)年のことであった。
この年になって始めて最上流に位置する白河藩まで、太平洋に繋がる舟運コースが届いたのであった。
阿武隈川が大河であるのは事実だが。下流域に遅れること、約230年後の実現である。
因みに最後の開通区間は、鬼生田(おにゅうだ 現・郡山市。当時は三春藩領)河岸から上流の川原田(現・西白河郡中島町。当時は白河藩領)。導入された船体は、新鵜飼舟と言い、小鵜飼舟より更に小型の舟であり、輸送ニーズもさして大きくなかったようである。
よって、福島〜鬼生田の間は、寛文〜安政年間のどこかになるが、やはり関心は低いようだ。
前稿でも述べたが、阿武隈川の河川舟運に河村瑞軒が乗出したことから、ドミノ式に海運方式の改善へと事業範囲が拡大して。列島周回の東廻り・西廻りの完成へと舟運史のエポックが始まっている。
大袈裟に言えば、それほど阿武隈川は、この国の舟運史では、サラブレッドなのだが・・・自らの実力・実績はどこか冴えない。
何故だろうか?
あえて、答を求めると、とりあえず2つくらい捻り出せる。
第1は、川の流れの向きが、江戸に背を向けていることである。
白河藩二本松藩は、江戸からの距離が程々であるから、ダイレクト陸送で江戸に届けようかと考えたくなる位置関係である。
山間部から東に向いて流れて来た阿武隈川は北に折曲るのが現実だが、真逆の南に曲がっていればジャスト江戸指向のグッドな舟運水路であったのだが・・・・
第2は、川幅や流れの紆余曲折や水量の多寡。季節・気候変動の要素。これらを織り込み改良工事などの資本投下をしても。見合うほどの跳ね返りが見込めなかったようだ。
上記の他にも。三春藩などは、阿武隈川によらず、東に向いて陸送を行ない・浜通りの海辺から港を求める方がメリットあるロケーションであった。
更に、会津・松平藩と言う抜群のリーダーシップを発揮する存在が近傍に居た。
中通りに所在する各藩は、親藩格の会津藩の動きを見習いながら、藩米の廻送を行っていた。
阿武隈川は、会津藩領を流域としていないこともあってか、会津藩阿武隈川舟運を利用して江戸に物資を送った事実は無いらしい。
となれば、阿武隈川舟運の主役は、信夫・伊達の両郡にあった幕府直轄領から搬出される御城米となる。
後述する河村瑞軒は、幕府のために仕事をした。そのことに尽きるようだ。
河村瑞軒は、阿武隈川舟運を幕府が使いやすいように手を入れたとも言える。そのことは、即ち幕府以外の各藩から敬遠されることを意味する。各藩にとっては、幕府の存在つまり特権を持つオーヴァー・プレゼンスが、そこに居るだけで身を隠すように振る舞った。その結果として、各藩は阿武隈川舟運を迴米ルートから積極的に外した。
事実、浜通り会津の各藩は、専ら陸路ルートでもって北関東に迴米した。
例外はあった。
外様の米澤藩は、置賜領産の藩米を板谷峠越(ほぼ現・国道13号線に沿うルート)に福島へ陸送し、そこから阿賀野川に浮かべた。最上川を川下げ出来るようになった後も、このルートを減量してでも温存した。
リスクの分散を図るためだろうが、この陸送ルートの欠陥は、出来秋から3年めの年に江戸に届く・それほどの長丁場であった。
さて関心は、河口の荒浜<現・宮城県岩沼市>に着いた米の辿った海路だが、実は2説ある。
荒浜から海船に積替え、江戸に向かったとする説。
もう1つは、荒浜で一旦陸揚げ保管され・地廻りテント船の廻航時に寒風沢浜<さぶさわ。現・宮城県塩竈市>または小渕浜<こぶち。現・宮城県牡鹿町>まで運び、そこから海船に積替え、江戸に向かったとする説。
筆者は、時々に両ルートが使われたと考えたい。
最後に、阿武隈川水路事業から男を上げ、約80年の生涯の最終コーナーで旗本に列するほどの大出世を遂げた河村瑞軒<伊勢に生まれ江戸で成功した商人・我が国有数の舟運・水文土木技術者 1618〜99>の略歴を型どおり触れておこう。
13歳で江戸に出て、さまざまな職業を転々したが。材木商・土木請負の頃に明暦<1657>の大火に遭い巨利を得た。1670御家人として召出され阿武隈川を改修、1671東廻り航路を整備、1672西廻り航路を整備、1684から淀川水系大和川水系の改修など近畿地方の治水事業に従事した。
以下は例によって余談。
川船の造船や操作などのやり方が河川水系ごとに異なるらしいこと、総合的・網羅的に体系区分や相互比較が行われていないのが現状であること。は、既に述べ・周知のとおりである。
しかし、阿武隈川の小鵜飼舟は、この川の改修・整備を担当した渡辺友以と河村瑞軒のどちらかが、彼らの活躍した関東水圏から導入したのではないだろうか?
未だ、根拠に迫るものが無いので、決め手に乏しいが。
やはりポイントは川の流れである。
阿武隈川の流れは、北関東の河川と似たような比較的穏やかな流れだそうだ。

和船〈1〉 (ものと人間の文化史)

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