か麗のしま No.10

台湾島中央付近に位置する嘉義の町にいる。
熱帯圏の縁にある町には、屋台がある。
北国生まれの筆者には、下駄履き生活の実感たる「屋台文化』はない。
体験的「屋台」となれば、福岡か?・博多だったか?ド忘れしたが・・・・・
中州の屋台を思い出す。
ただ、あれだけ有名になると、観光資源の中でもハイランクに位置づけられ・知名度が災い?して・・・・
地元の人は寄り付けず、下駄履き生活からは遠い感がある。
列島も九州まで南下すると、夕暮れと星明かりを楽しむ文化にぐっと近づく。
日の出が遅い分、夕暮れまでのフリータイムが十二分にあって、アフター5が豊か=恋の町ハカタである。
まだある。暖かい地方の建造物は、北のそれと異なり・造りが開放的である。
寒さ対策が手軽な分だけ、内と外の区切りが簡素かつあっさりしている。
もちろん雨降りに対する備えは別として、トロピカル・ムードだ。
簡易組み立てに徹し・速やかなる移設を前提とした「屋台文化』は、亜熱帯の風俗と重なる。
さて、台湾現地に戻ろう。
嘉義駅前に立つ・名ばかりホテル=例によって安宿渡りの旅だから、朝も夜も周辺をうろついて餌を漁る。
こう書くと、徹底した貧乏旅行を売り物にせんと。架空の話を祭り上げる”うれない作家”のワンパターン書法の臭みととられそうだが、、、
、実はそうではない。
海外旅のバイブルなるものがあるかどうかは知らないが、、、
見知らぬ土地で宿と食を決める場合の基本ルールがワットにはある。
名着けて”ジエトロ方式”である。
タイトルほどの重みはない・簡便である。
”宿は眼で選び・食は鼻で選ぶべし”
まず宿だが。防火を配慮して、不燃構造の外壁を持ち・出来れば低層階の部屋を
そして防犯にも備えて、鍵がしっかりしていることを確かめる。貴重品は常時持ち歩いている。
次に食事だが。
建物が立派・とくに中の客が見えないレストランは除外。
選ぶべきは、地元の人向けの・凄く混み合う・下町の食い物屋に限る。
何故混むか?安くて・美味いからだ。
混む店は、回転が早いから食材も新鮮。よって食の安全性も保たれる。床の上は見ないようにするが・・・・
とまあ、尤もらしいことを書いて来たが、ホンネは当然に”懐ろ最優先”である。
嘉義では、裏通りの夜店・屋台に入った。
店の中は外から丸見え。暖国だから入口に扉も窓もない、道路と店の仕切りは探せばあった。
総菜を載せたテーブルが、それ。
総菜テーブルから自分の食べたい物を選んで、タテ・横に走る店内の通路を進み。
その辺の空いた席に座る。客は前から後ろから自在に通り抜け・食べ物を自分の席に運ぶ。
飲み物だけは、店員を呼んで注文する。
店員はチェックシートを持っている。客の選んだ料理と飲み物を書き、シートを置いてゆく。
客は、帰る時にそのシートを帳場に出して、金を支払って・立去る。
何とも合理的な食堂運営方式である・・・・店員の数をとにかく減らせる。
チェックシートは実に優れたシステムである。シートの大きさは、概ね文庫本の倍くらい。
色は鮮やかな黄色か・ピンク色である。表の方には、40〜50品の料理名と単価が印刷されている。
それも麺食・飯・青菜・小菜・湯・沙鍋魚頭と類別に整然と区分されている。
店員のやることは、呼ばれてから飲み物の注文を採り・シートを書く・客が帰ったアトに皿を片付け・テーブルを拭く。それだけだ。
レジ係は、シートを持って来た客から金を受け取るだけ。
それ以外は、全部客自身が動き・自ら運ぶ。
さて、そろそろ筆を置くとしよう。
自分の皿の中に、気になる食材がある。
何だろうか?黒くて・幅広=太めの細帯のような・ぶよぶよしたものだ。
少し考えた
こういう時は、地元の人に尋ねる。問題はコトバの壁である。
それとなく見渡してみる。すぐ隣の席に居る中年夫婦が適任そうだ。共働き・夫婦仲が良さそうだ。
こちらの関心は、中華料理にはない。
北海道特産品の1つ=昆布の行く末を自らの足で調べたいと想っていた。
昆布は、中国語では「海帯」と書く・あらかじめ知っていた。
まず亭主の方に、皿のものを箸でつまんで見せる。これは何かと言うか? まあ、自分だけが判っている。
亭主は予想どおり女房と打合せをするらしく、そっちに振る。
まあ、大抵の家が調理担当は妻であろう・・・・
打合せの上で返事が来たが、全く聴取れない。
そこで、やおら、店備え付けのチェックシートの裏の余白に、海帯?と書き込んでみせる。
夫婦笑って「ちゃう・ちゃう」また何とか言う。
こっちは大袈裟に振る舞う。耳に手を当ててから、書いてくれと拝む=ボディーランゲージだ。
『木耳』と書いてあった。
キクラゲであろう。
”シェ・シェ”と発して、一件落着
以下は、知る人ぞ知るコンブ貿易の話である。
北前船の時代、特に幕藩体制下の海禁時代だが、最も重宝された輸出品は、主として北海道を特産地とする水産物であった。
中でもコンブは、江戸幕府が貿易管理する重要品目であり、取引相手は清朝公権力、長崎・出島経由の公定価格・取引である。
以上がタテマエの話。 以下は筆者がどっかで聞いた話。だが、出所は忘れた。
現代日本のコンブ消費については、地域差が大きい。
上位ランクには、沖縄・富山・大阪・石川などの府県が名を連ねるらしい。
現代のコンブ消費と約百年前のコンブ流通との因果関係について、民俗的想定をしてみよう。
コンブ流通の始発点は、産地集積地=北海道松前藩 → 終着点は、消費地中継港=中国の寧波または福州であったろう。
中間流通経路は、さまざまだが。
沖縄の船が運ぶ第4コーナーは非公式の貿易であったろう。この時代は当然に、バックに薩摩藩が控えている。
富山には江戸時代から始まった=かの有名な”売薬(=漢方の家庭常備薬)”なる地域特産品がある。
漢方原料である生薬の本場は中国大陸である。
富山には北前船の寄港地=岩瀬港があり、そこに生薬とコンブの両方を商う「越中薩摩組」なる流通組織が存在した。
富山と石川県金沢の関係は、幕藩時代における支藩と本藩の間柄である。
残る地は大阪のみだが、北前船の発着地は概ねそこであった。
幕藩期における人口重心に近く・あらゆる物資流通の要たる地位にあった。
非公式貿易とは、密輸である。管理貿易の締め付けが密輸を育てる=人類史の常識でもある。
クロブネ来航→開国=自由貿易体制への移行により、密輸は急速に消えた。
北前船の全盛期もまた鎖国時代であり・明治年間には殆どが消えている。
さすれば、北前船を育てたのは、長崎・出島の管理貿易であり。
木曽川改修から関東周辺での相次ぐ手伝い普請で、財政的に破綻していた薩摩藩の懐を立ち直らせ・遂には倒幕資金の蓄積を招いた背景もまた管理貿易を土台にした密貿易の暴利であった。
歴史の面白さは隠され・見えないものを覗き見ることにあるかもしれない。
今日はこれまでとします