おもう川の記 その9 阿賀野川編・初稿

桜の花が、南の方から咲き始めた。
季節は春なのだが、近年の実感は、冬が終わって2〜3日経つと、すぐに夏が来る。そんな気温の変りようである。
これは川面を眺め、流域のあれこれを語るシリーズである。
山形県の「赤川」から書き始めて、おそらく同じ山形県の「大河」をもって終ることになろうが、
ひょんなことから、水源を共有する磐梯・朝日連峰の山並。
それも分水嶺としては裏側に当たる「荒川」に話題が転じたことがあった。偶然であるが・・・・
それから、想わぬ展開となり、今日採上げる川も「荒川」同様に新潟県を河口とする「阿賀野川」である。
あかがわ・あらかわ・あがのがわの順だから、頭音五十音順で進める積りなのでは? それはない、たまたまに過ぎない。
さて、阿賀野川・・・・米澤に縁のある川の1つである。
その話は、おいおいに紹介するとして、まず、阿賀野川のプロフィールである。
筆者は、新潟市に住んだことがある。
その昔,そこの博物館で、河川管理の特別展が開かれ、出来心で覗いたことがあった。
古絵図が数点並んで置かれてあったと記憶する。
この手の河川見取り?図は、大氾濫の直後に流路がどう変化したかを大観し・一覧する目的で、作成されるらしい。
古絵図が数点も残されているのは、その枚数に匹敵する回数の大氾濫が、かつてあったことの証しであり。
作成時系列準に並べて・古絵図の中の流路の違いを比較すれば、都度の氾濫前後の変化を一望することができるのだと言う。
それで得た知見を要約するとこうである。
新潟の旧名は、船江(ふなえ)であったらしい
その昔、日本海側有数の大規模な河川港湾であったらしい・・・・
蒲原津(かんばらのつ)と沼垂津(ぬったりのつ)は、船泊まりの名前であろうか?
河口の中に船泊まりが2つもある川は、珍しいのではないか?
古絵図の中の川の名は、大川と西川であった。
どこにも説明文言がないので、学芸員を呼んで尋ねた。
大川の方が、阿賀野川。西川は信濃川。 
そして,この2つの大河川が、1つの河口を共有して・日本海に注いでいた時代があった。
大河川の意味だが、2つの川ともに列島で上位10ランク内<河川長と流域面積が大きい>を占める大河である。
行きがかり上、信濃川についてチラと触れる。
川の名が、実にふるっている。
信濃川新潟県内での呼び名で。上流=長野県での呼び名は千曲川である。呼び名と流域区間との微妙なズレが面白い。
序でだが源流は、長野・埼玉の県境地帯だから。地方行政区分の決め方に、大いなる疑問があると言うべきであろう。
更なる脱線だが、流域に列島有数の穀倉地帯=越後平野がある。
これも知る人ぞ知ることだが、乾陸化して水稲栽培が安定したのは、この100年内のこと。
大河津分水と関屋分水という2つの人工放水路が、竣工(前者・放水河口が分水町1922&後者1972・新潟市西部に放水河口を掘った)した結果である。
さて、阿賀野川だが。古絵図のとおり”大川”の名に相応しい風格を持つ。
列島における河川長最長である信濃川=”西川”を差し置いての”大川”称号だから、、、、
ある時期・少なくとも船江の住人たちにとって、2つの川の大・小イメージとランク付けはそうであった。
ここで筆者は、生来の困った癖?を発揮する。
2つの大河が、河口を共有するようになったのは何時のことか?
そして、2つの大河のうちのどちらが先に河口を占め?アトで参入して来たのはどっちの川なのか?
そのような疑問が湧いて来るのであるが、その拘りはどうでもよい、極めて些細なことかもしれない・・・・
因みに現代の阿賀野川は、その後の土木工事で切離されて直接日本海に放流された。
よって今日現在は、信濃川との河口の共有はない。通船川は名のとおり連絡水路でしかない・・・
因みにの2つ目、新潟市上水道は、信濃川から取水している。
最長河川長の最末端にして・列島有数の穀倉地帯である越後平野の川尻にある新潟市の飲料水としては、医学疫学上の課題があるらしい?
まして、昨今は化学肥料・殺虫農薬全盛の農業時代である。
とまあ、ここまで書いてから、現代新潟市民の好みを勝手に忖度するとしよう、、、、
”大川”さんよりも”西川”さんの方に愛着を持っている様子が伺える。
果して当たっているか?
残り紙数僅かとなったが、阿賀野川について述べたいことは、まだまだある。
その続きは、また明日に持ち越すこととして、ここでは本稿の叙述が何故?荒川のアト → 阿賀野川へシフトすることになったかについて触れる。
第1の理由については、既(上)に述べた。 阿賀野川は米澤に縁のある川の1つである。と
第2の理由は過ぎてしまったNHK大河ドラマ=「八重の桜」を思い出してもらいたい。
と云いながら筆者は見れなかったので、気の利いたことは言えないのだが、、、、
やはり会津盆地の中心は、官軍によって攻め落された鶴ヶ城であろう。
もちろん城中に侍がいて・会津藩主がいた。列島では、城はコンクリート製でも地域の眺望的シンボルである。
ここでは、明治政変で逆賊視された会津藩のことを正面から採上げた某官営放送の変身に着目したい。
TVドラマでしかないから、日本歴史とは直接関係ないのだが、、、しかし、TVモニターのこちら側にいる一般視聴者の受止めは、また別である。
だからこそ、明治政変流血内戦が終わってから140年超も経過して、やっと放映されたとも言える。
だが筆者にとって,城の話は脇道でしかない
筆者にとって本道の話題と云えば、もちろん川である。
会津盆地の中心を流れる阿賀川が,当然たる主役である。
阿賀川は、阿賀野川の上流に当たる川である。音の重なりようが、ややこしいのは致し方ない
福島・新潟の県境を以て、川の名が変る。 ”何と大河なこと”であろうか?
あの大河メコンですら、数多くの国境<県境でない>を越えても変らないのにである・・・・
そして河口の船江で呼ばれた”大川”なる名前が、手持ち地図=会津盆地の中にもあった。
やはり大河であるのは、間違いないようだ。
今日はこれまでとします