閑人耄語抄−16

No. 16 荒れ野ゆく  プラチナプリンス  しらん咲く
 〔自註〕 花の好きずきは、特にないつもりである。
だがしかし、時にアレルギーを招くものがある。満座の中で、筆者だけがクシャミ連発の専売人となり、始めは笑われて、遂には呆れられる。他人の胸中を推し量ることは出来ないが、アレルギーは、症状と原因の関係に説得性が乏しく、しかも何で「キミだけが、あのタイミングなんだ」といぶかしいことしきり。団体の中でのストレスは、一人暮らし以上に、おびただしいものがある。
つまり、この科学時代にも、因果関係の究明が難しいものは数々ある。その一つに、花言葉がある。それ故花言葉はそっとしておくことにしよう。
しらんは、都会では見かけない。専ら山の中とか荒野で見られる。広い視界の中で、映える存在である。馬も牛もいない広野は、荒野と書く?
荒れ野の花は、姿かたちにかかわらず、ワイルドな存在に耐える男のイメージだ。シランは、荒れ野の花の中では、一際、姿かたちがノーブルである。よもや女に例えられる花で無いことを、、、
荒れ野の花で思いだす花は少ない。北海道やニュ−ジーランドの路傍で見たルピナスくらいである。
さて、花を見て男をイメージした例があったろうか?
思いだせない。
在原業平が八橋でカキツバタを、大伴家持越中雨晴の海でカタクリを詠んだ。それぞれが想い浮べ、詞で描いているのは、都に残した妻であり、井戸に集う娘達であった。
さて、No.15が欠番となる事情を、くどくどしく記録しておく。
約65年前に出現したコンピューターなる電磁気に頼る記述方法は、信頼に乏しいシステムである。
文字の発明と農耕の始まりとは、深くかかわりがあるらしい。農業による食糧生産は1万年前だそうだ。
その1パーセントに満たない時間しか経過してない電子計算機は、名前のとおり計算には耐えようが、
記号処理機としては、大いに改良の余地がありそうだ。