+第10稿(実は第11稿) フィールドワーク報告の最終稿です。

さる5月22日由利本荘市において実施した調査の後半である。菖蒲公園での濡れ浜稲荷の山の神石碑を実見した後、調査団は、古雪中島を実見するべく移動した。子吉川下流本荘市中心市街から日本海合流地点までの間に、存在するはずの中州を求めて、ゆっくり車を走らせた。
古雪中島を最後の調査対象にしたのは、もちろん時間上の制約である。
 読者にとっては、突然出現する地名なので、ここで概略を説明したい。
 海吹寿老は、筆者の本稿執筆のことを聞いて、とある講演記録を前夜持ち出して来たのであった。そこには、筆者にとって、ドキリとすることが述べられていた。
 本荘市においては,20数年前から市史編纂に着手していた。そして2003年には普及版の刊行も済ませて、編纂事業は一応の完結を迎えた。しかも,この2003年は、本城満茂入部400年の記念すべき年に当たるため、8月に講演会を開催したのだと言う。ここまでは、どこの地方都市にもある修史事業のことであり、何も驚くことは無い。
 さて、核心はそれに続く海吹寿老の話である。その講演記録を海吹寿老は、本家筋の菩提寺の住持から、最近面談した折に直接頂戴したのだと言う。筆者は慌てて講演記録にざっと眼を通して、いささか青ざめた。執筆とフィールドワークの着手タイミングが前後転倒していることの咎めとは、このことだと一瞬思った。
 行政による組織的学術調査のことを、全く知らずに,遠隔地にある疎遠となった縁故地の故事を取上げたのは、大いなる迂闊であった。がしかし、漠然とではあるが、専門家の領域と素人の距離からして、互いに噛合うことは無かろうと、その日は早々に就寝した。
 海吹寿老は、生家の菩提寺の由緒が、生地の市街地誕生よりも古いことを自慢するが、筆者にはその確信が無かったので、受答えはしどろもどろであった。更に、海吹寿老は、菩提寺の開創の地である中州は、現代の子吉川に存在すると言う。そこで翌朝フィールドワークに出かける次第となった。
 さて、講演記録について、筆者なりの捕捉を加えつつ、核心を紹介することにしよう。
 まず出典を明示しておきたい。講演記録は2003年11月発行。
本来の収録箇所は本荘市文化財保護協会編の『鶴舞」86号、演題は『本城満茂と城下町本荘』(講演)、講演者は長谷川成一(=弘前大学大学院教授)氏、講演実施は2003年8月。
 なお、鶴舞とは、本荘の地に慶長18(1613)年本城満茂が建設した平城の名称である。戊辰の役で消失し、今日土塁の名城として有名である。また、講演者は、当市の出身者。因に、本城満茂は、最上義光(=もがみよしあき)の臣下で、本願の地は楯岡(=現、山形県村山市)であった。ついでに蛇足ながら、宇都宮釣天井事件で知られる本多正純は、本荘に来ている。山形城主最上氏改易に際し幕命により城塁接収作業に従事のため出張中に、元和8(1622)年ころ自らの改易処分通知を受けている。
 さて、城下町としての本荘が、成立したのは何時だろうか?、
 慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いが終わった。徳川家康による戦後処分は同7(1602)年までに実施され、名門佐竹氏は秋田に移された。この時秋田の南に当たる本荘の地は、最上氏の支配地となった。
 鶴舞城の建設者である本城満茂が、この地に入ったのは,1603年であった。しかし、彼は入部の前に,既にこの地に古雪なる独立の自治集団都市があることを承知していた。この先住者と対立せず、調和を図りつつ、自らの領地経営つまり,新城建設と城下町形成を進める方が得策であることを知っていた。このことは,彼の主君に当たる最上義光も承知であった。封建領主である主君もまた、最上川中流域の山形にあって、その下流河口にある酒田港の実力者との融和に腐心していた。
 古雪と酒田では、組織や港の規模が比較にならないが、ともに海運に従事する同類のカイゾクであり、水軍としての軍事力、日本海交易で集積した経済力、自由に海上を移動する独自の情報力、横並びの結束の力には恐れられるだけのものがあった。しかも、戦国終末直後の不安定な時期である。強力既存集団は、敵に廻すことなく味方に取込む必要があり、これは最上主従の共通の作戦であった。
 では、古雪の地にこれら独立集団が、海運拠点を構築したのは何時だろうか?
 それについてはおそらく講演者も答えられないだろう。だが、講演によれば、2002年8月同市古雪の善応寺(=ぜんのうじ)において、1週間の学術調査を実施し、画期的歴史資料に遭遇して,おおいに感激した様子が伺える。
 史料とは、寺宝である。寺の「由緒書」と浄土真宗寺院特有の「真影」から、この寺の開創の時期と事情が判明したのである。古雪中島に最初の寺が建設されたのは、文明4(1472)年第8世本願寺門首蓮如の命によってである。
 答のヒントは、ここにある。筆者は、カイゾクの拠点建設と真宗教線拡大は、ほぼ同時進行と考えてよいと思っている。航海時代の植民地拡大とキリスト教寺院の進出との関係から容易に想定されよう。実例を挙げよう。舞台は南米に飛ばない。天文12(1543)年ポルトガル船が種子島に漂着(=あちら流では日本発見だ)し、鉄砲を置いて帰った。その6年後に宣教師ザビエルが鹿児島に上陸するのだ。 
 講演者は、もちろんカイゾクなどとは言ってない。当時日本海海運で生きる「海の有徳人(=うとくにん)」と呼んでいる。彼らが蓮如が教線拡大の対象とした琵琶湖のカイゾク堅田衆と繋がりがあったことは、言うまでもない。末寺開創を命じた蓮如は、この時1472年は越前国吉崎坊に居た。応仁の大乱の京都を避けてではあるが、乱の直前に,比叡山僧兵の襲撃を受けて本願寺伽藍を破却されているのだ。その理由を論ずるのは,本稿の主旨を逸脱するが、あながち無関係では無いので略述することにしよう。第1は、施入集団の堅田衆を比叡山から奪い取ったからであり。第2は、蓮如の教えが寺院不要の説であったからだ。つまり、キリスト教における宗教改革者と同じ立場であったが故に,既存勢力の全仏教者から忌避されたのである。
 さて,結論に進もう。既に述べたが,本荘は古代の由理柵に比定されるため、律令時代から継続して住人が居て活動した地であることは確実だ。
 だが、ここではっきりしたことは、本城氏が入部するに先立つこと130年も前に「海の有徳人」の活動拠点として確固たる状態にあったことである。
 真宗寺院と海運従事者との深い繋がりは、ここで論ずるまでもないが、参考事例を掲げるにとどめる。
   河口や河川の合流点に拠点を建設する例=いわゆる氾濫原であり、通常人は
   寺院や道場の建築をしない
     古雪中島(出羽国由利郡。子吉川流路の中州)
     伊勢長島(三重県桑名郡。木曽・長良両河川の合流点)
     石山本願寺(大坂。淀川河口デルタ、上町台地の端部)
     尾山御坊(石川県金沢市。犀・浅野両河川デルタ、小立野台地の端部)
 講演記録を熟読してみたが,筆者が既に述べたことを、根本的に訂正する必要は無いと感じた。ただ、古雪中島の存在は、筆者にとり全くの新知見であった。更に講演記録から得た知識として古雪中島および古雪港(=川の南岸)が内越郷(=うてつごう)に属することを述べなくてはならない。これは、筆者が記述したことの修正である。内越は、筆者の古い知識では,川の北岸だった。そして、江戸期は、北岸はなべて亀田藩領だと思い込んでいた。内越郷は川の南に及び、子吉郷もまた,川の北側に及んでいたらしい。筆者たるもの思い込みは排除して,事実に立脚して記述すべきであった。
 また、内越を内陸に所在する荘園との想定で,記述したのも誤りであった。知里真志保著の『地名アイヌ語小辞典」によれば、ur,-i。ururu。ut-nay。utur,-uなどは、いずれも水に関係ある地名だと言う。この辞書の取材地は北海道だが、津軽海峡以南に及ぼしてよいと筆者は考える。
 最後に,河川の流路の変遷についての考察だが、一般に川は長い間に大きく変遷する。たしかに子吉川の中州は失われて今は無い。だが、埠頭のサイドが変わった事実は無かったようだ。
 これも事実に立たない筆者の憶測だが、確言できる。それは筆者の母校が漕艇競技の名門校で、かつてインターハイで全国制覇したことがあるからだ。子吉川の流量が年間を通じて安定していることが、ボート部にとって何よりの強みなのである。専門用語では、河状係数と言うそうだが、日本には珍しい、欧州大河並みの低係数だと思う。
 
[エピローグ1] 殺生関白と言われた悪名高い豊臣秀次について、本文ではほとんど触れなかった。彼は,秀吉の姉の子だが、実子の無い叔父に見いだされ異例の出世をした。しかし真相は秀吉の名代として全ての重要戦闘に臨んだのだ。例えれば、ヤマトタケルと同じ役割を果たした。転戦地は九州から東北までほぼ全土に及ぶ。功績を認められて、秀吉の養子となり、後継者として位人臣を極めて関白を譲られた。その直後に、淀君が秀頼を生んだ。誰の子か?は置いておく。たちまち、秀吉に疎まれるようになった。関白職を解かれ、死を求められた。彼の悲劇は、一身の不幸にとどまらず、翌月遺児妻妾都合39人が三条河原で斬首された。歴史書でも極悪非道の人物と書かれた。筆者は真相は逆だと思う。実力者の方が、変心したのだ、非道いヒヒジジイだ。
 さて、これから筆者が述べることは、いずれも仮説の域を出ない。
1、秀次と親交のあった人物
    伊達政宗最上義光真田幸村山内一豊
2、秀次と近江商人
    近江八幡市が共通の接点、秀次の死後その家臣団はどうなったか?
3、秀吉の天下統一と関所の廃止
    全ての海運・陸運業者にとって既得権を失い、没落の契機となったか?
以上から『海の有徳人」も最上家臣団もアンチ秀吉の立場であったと考えたい。
[エピローグ2] このカイゾク研究の元になった年次研究は、四半期以上も前に始まった。1つのテーマを年賀状で発表した。年1回。250文字程度の制約があったが、この度ブログレポートに切替してみて、制約があった方が良いと思っている。
[エピローグ3] 本稿は、冒頭において触れたように、2006年の年賀状で扱ったキャプテン・クックに海人の出自である筆者のルーツ解明を重ねたものだが、筆を置いてみて、当初の構想とのズレが大きかった。 
[エピローグ4] ここで、キャプテン・クックを取上げた理由を述べるとしよう。それは、42年まえに抱いた疑問を解決する過程において、キャプテン・クックの事績を知る必要があったのだ。   
[エピローグ5] その疑問とは、戦争はもっとも悲惨だが、何故20世紀に2つの世界大戦が起きたのか?であった。
[エピローグ6] 大きなテーマで、将来とも簡単に結論に至るとは思えないが、今のところ、現今の社会システムに歪みがあるのだと考えている。
システムを別のコトバで置換えると、市場原理自由競争経済体制となる。
[エピローグ7] では、この体制は何時から始まったのか?だが、
それは約250年前イギリスで起った産業革命からであり、ニューシステムは間もなく世界中に広まった。
[エピローグ8] 産業革命の前と後では、人々の生活はどう変わったか?
 賃金で雇われる労働者の出現
 動力で動く機械をたくさん据付けた工場
 大きな工場を作るための資本集積ーーーー株式制度の出現
 工場への通勤と公共輸送システムの出現
これらは、現代人には常識だが、人類史上そんなに古い生活習慣ではないのだ。
残業のための照明用エネルギー源として捕鯨が始まり、日本に開国を迫るようになったのが、約150年前だが、そんな気紛れは間もなく石油へ移り、今捕鯨で日本がいじめに遭っている。
[エピローグ9] 現代システムの歪みの原因と思われるものを挙げてみた。
 ●キャプテンクックは、未知の島に到達すると、国王の名において領有宣言をな 
  した。そこに先住民が居ても頓着し無かった。競争原理の人が、他者の存在を
  どう扱うかは予め決まっている。排除、抹殺、無視。また、自由主義では土地 
  の所有も当然としたが、一方で土地のように天賦のものは私有の対象としない 
  原理があることもまた事実である。
 ●一神教の世界の処世や価値観は、門外漢には雲をつかむようなところがある
  が、白人の行為はすべて絶対者から発せられた唯一の原理に照らし合目的的に
  正当化されるものらしい。
 ●資本の論理では、マジョリティ(=多数)が全体を決める。あまりに単純だ 
  が、要するに大きいことが正当なのである。
 ●科学の知識は、いついかなる時も『部分知』でしかないのだが、自由・競争の
  下では、あたかも錬金術のように十全無欠に扱われる。
 ●これを体現したのが、産業革命では遅れを取ったが、化学工業を興してイギリ 
  スを退け、世界経済のヘゲモニーを握るかに見えたドイツだった。しかし、単 
  細胞単純思考の拙速主義は世界から反撃されたかに見えた。がしかし、化学製 
  品としての農薬と肥料は、人口の異常増加と地球規模の環境破壊として確実に 
  今日も機能している。
[エピローグ10] この歪みは、250年前のイギリス社会の歪みに、端を発していると思う。ここでは、2つだけに絞った。
 € 産業革命の根底思想として、科学革命というパラダイムがある。
   地域と社会の内外に格差を産み出し、その構造を固定し維持する近代世界シ
   ステムがある。 
 このいずれにも関わる人物としてキャプテンクックを発見した。
[エピローグ11] クックは、大航海時代のピーク期、そしてそれはまさに資本集中を演出することで産業革命の前夜に当たるが、著名な航海探検家として、また、成し遂げたことが技術文明の幕を切って落したことで、科学革命の主役の一人として、彼は重要な時代の人となったのだ。 
[エピローグ12] 新人紹介の役割は、もう十分に果たした。最後までお付合い頂いたことに感謝を申し上げる。
○ 科学革命については、唱道者のH.バターフィールド(歴史家、ケンブリッジ大学教授)の著作「近代科学の誕生」(邦訳1978講談社刊)がある
○ 近代世界システムについては、提唱者のI.ウォーラーステイン(経済学者、エール大学)の著「近代世界システム」(邦訳岩波書店など)がある
○ 科学の研究は、常に個の領域に属する。クックは、複数の専門の異なる学者を缶詰めにする航海をした。本来共同研究は、人類の利益のためになされるべきだが、ノーベルが爆薬を改良した後は、軍事技術の面でもっとも導入された。これが、人類の不幸となった。
○ 科学革命の欠陥は、科学万能神話と単細胞的発展史観を招いたことにある。しかし、環境破壊が文明の衰退を招くとする生態学により、欠陥は修復されつつあり、1970年代にはローマクラブの発足を見た。成長の限界(邦訳1972ダイヤモンド社刊)
○ 今、世界は情報革命の途上にある。産業社会の欠陥を是正する要素も認められる。人類の叡智が望ましい方向に導くことを祈る。       以上  完