*[カイゾク研究]+第9(=実は10)稿

*[カイゾク研究]+第9稿(連続第10稿)
本稿は、5月に実施したフィールドワークの報告の続きである。この日得た成果である山の神碑の写真を第8稿(連続第9稿)に示したので、本日の記事と併せて参照されたい。前回のフィールドワーク報告は、鳥海山について書いた。その翌日5月22日(=調査第2日目)調査団は由利本荘市に入った。案内者はもちろん海吹寿老である。
 東に鳥海山の山頂を西に日本海の穏やかな波のうねりを見ながら、車は一路北上する。山形・秋田県境に有耶無耶の関跡がある。古代には鬼が出て、旅行者を襲ったと言う。海に面した小高い丘であるが、それほど山越えに苦労する嶮所の地とは思えない。クニ境が険難の地形であるべきとの前提に立てば、むしろこの地から南方約5キロメートルの地にある十六羅漢の地の方がふさわしく思える。十六羅漢の地は、鳥海山の山体噴出物が直接日本海に注いだ、まさにその切羽に当たるポイントであるのだ。
 十六羅漢から有耶無耶の関まで、国道7号線は、鳥海山の裾野を形成する広大な溶岩台地の上を通る。しかし、それは新たに建設された新ルートである。古代からの古道は、台地の下を波打ち際を避けるように、海岸線に沿うように複雑にうねって細く続く。この古道は、今日では「あまはげ海道」と命名されている。秋田県男鹿半島に伝わるなまはげとの関連については、海吹寿老が専門に研究されており、その文献もあるが、ここでは「あまはげ」と有耶無耶の関に出没した鬼との関係も含めて、論ずることなく旅を急ぎたい。
 車は、間もなく象潟を通過する。この地は、秋田県でも著名な文学遺跡の地である。『おくのほそ道』の行脚の途中に松尾芭蕉が立ち寄った名勝の地である。この他に能因法師北条時頼回国の伝説がある。名勝の地とされる所以は、鳥海火山により形成された泥流・岩屑地形が、長い間の海食作用により、無数の島となったからである。約2,500年前には、八十八潟九十九島と呼ばれる多島海景勝地となり、東の松島とも言われる歌枕の地であった。しかし、現在の象潟の島々は海の中では無く田んぼの中にある。それは、芭蕉が松島と対比して『憾む(=うら)むがごとし』と予言?したとおり、文化元(1804)年6月に起こった地震(=直下型、マグニチュード推定7.0)により、一帯が約180センチメートル隆起したのである。芭蕉が見たのは元禄2(1689)年の象潟であるから、地震の115年前だが、本荘市民にとって、惜しむらくは、芭蕉が北上の旅をそこで打ち切り、南に折返したことである。
 由利本荘市に入る。西目町の海に面した高台の地に海士剥(=あまはぎ)なる集落がある。沿岸漁業の根拠地だが、ここの漁師の風俗は、かつて独特であった。コトバでうまく述べがたいが、彼らは常に集団で行動し、声高に話をし、頭にはパレスチナアラファト議長のような布を載せていた。原色の布を巻き、ヴォリュームは何倍も多かったが、周囲とは大きく異なる、際立つ風俗であった。
 由利本荘市に南から入る。古い時代の街道は、白砂青松の砂丘道が終わると道の両側に人家がぼつぼつと現れ始める。家と家の間から住宅の裏に川が迫っているのが判る。子吉川である。入口の集落は浜の町といい、家の裏の護岸された川の水面には、それぞれ木造船をつないである。名のとおり、漁師町である。集落の位置は、古雪の手前約1キロメートル、つまり川岸としては、同じ南岸の下流である。家の横を抜けて裏の岸に立つと右手に古雪の船溜りが見える。川の流れに沿って眼を転ずると、対岸に、地名としては由利本荘市石脇(=いしわき)地区だが、江戸期は岩城藩領であった。丸い双丘の新山(=しんざん)が見える。港の近くにある姿の良い山は、港の質を決める重要なファクターだ。外洋から入港する際に、船の針路を決めるためにも、特にしけの時に、緊急避難港を発見し、確定するための目印でもある。また、入港の翌朝になって、その日航海に出るかどうかを決めるのは、船長の仕事だが、帆船時代において最も重大な決定要因は、その日の天候の予知であった。それを決める場所は、遠望・眺望に支障の少ない高山である。港から徒歩で往復できる近さにある必要がある。このように港の機能の一部をなす山を日和山と言う。
新山については、港の対岸に位置することと、北前航路がもっとも盛んだった江戸期に他領内に位置すること。この2つが難点だが、日和山の要素を備えると言えよう。
 視線を更に移す、正面の対岸から左に砂丘が見える。白砂青松の砂丘である。松は、江戸期に藩主が力を入れて植林を勧めた成果である。日本海に面する地は、なべてそうだが、「にしかぜ」が強い。そこで、防砂林を手厚く造成して、強風により海岸後背の耕地から表土が失われることを阻止したのである。更に、その防砂林の先に、砂丘と河口の切れ目が見える。海と川の合流点は、西方向1キロ強の距離であろうか?
 浜の町の街路は、川に向かって緩やかに下るが、集落のほぼ真ん中で釘のように折れ曲がる。道なりに右手に進むと約1キロほどで古雪に入るが、この日調査団は、逆方向へと向かう。間もなく家並みは切れて、正面に長辺15メートルくらいの概ね楕円形の池がある。その突き当たりを右手の海に向かうと、ほぼ家並みの切れた辺りに、漁船を作る造船所があったが、木を削る音が絶えてもう40年近いらしい。池の水源は、左手の方へ続く沼沢の更に奥にあって、沼沢には、整然とショウブが植えてある。一帯は、菖蒲公園と言われ、海辺から続く砂丘のうねりの端の方から自然に流れ出た流水の末端で、おのずから住居が集まるようなたたずまいである。なお、菖蒲の花は、この市のシンボルマークでもある。
 日本海沿岸地方のどこでも見られる平凡な砂丘地帯の一画だが、自然湧水があることで、そこには漠然と神聖なムードが漂う。流水を少し遡ると、やがて右手に赤い鳥居と砂丘の頂上に小さな祠がある。その周囲だけが、松の木が透けており、空が見える。境内地を囲う構築物も無く、小高い砂丘にただ祠が置かれたような粗末なものだ。濡れ浜稲荷と言う。
 目的の石碑は、その参道とも言えない中腹の砂の上、コンクリート製の基礎のうえにあった。海吹寿老の幼少時の記憶によれば、当時基礎は無く、砂丘の上に直に置かれていたのだそうだ。表の面には、山の神と太い線の陰刻がある。下の面には、傷跡があるが、おそらくは針金でも引き回して引き摺ったのであろう。裏の面は全体が2つの平面に分かれ、平面の境界線が概ね左上から右下に走っている。石の切出面を平滑にしないまま、文字陰刻はしたのか、それとも、その後の劣化で表面が変化したのか、どちらとも決めがたい。細い字の陰刻がある。
 下の面は、速水源一郎と読める。これ以外の文字は無いと考えてよかろう。文献上の歴史知見と一致する金石文に出会うことは、とても稀な体験であり、感激一入である。フィールドワークは、労多く功少ないものだが、この度は海吹寿老の力添えに、ひたすら感謝である。経験と体験の違いは大きいとしみじみ思う。
 さて、難題は、上の面である。実は現地調査からデスクに向かうまで、20日程度を要した。文献を泥縄であるが、許される範囲で探した。答はいつもそうなのだが、向うから歩いて来ることは無い。答が幾つあるかも判らない。誰かが既に結果を出しているかも知れないし、生涯答らしいものに出会わないかも知れない。
 『天保十二まる・まる辰二月」とタテ1行にやっと読める。まるは判読困難な文字を意味する。ここでは、まる1つを仮に文字1個分としたが、確信は無い。上下のスペースから文字数にして三文字の可能性もある。
 [碑文の検討] 
 1、天保12年2月に、速水源一郎が、山の神の石碑をこの地に建てた。
 2、速水源一郎は、既に述べたが、古雪の名主で幕末期の人である。
 3、前にも書いたが、この名は筆者の家伝には出現しない、名主であったこと以外は  
   何も判らない。
 4、その出典は、角川・地名辞典によれば、本荘自治史である。それ以上のことは今後の
   調査としたい。
 5、天保は、江戸期の年号で、15年まであった。安易に西暦換算すると1830〜44年まで 
   だが、幕末期に当たる騒乱の時代であった。
 6、辰の扱い。この文字の上に2〜3字の判読不能文字があることと、天保12年が干支 
  (=えと)年号では、辛丑(=かのとうし)に当たる。辰と丑では不突合である。
以上が、碑文についての要約だが、最後の年号不突合は、頭が重い問題だが、例によって結論未到達のまま、執筆に至った経過を略述して中間報告といたしたい。
 まず、年号のことだが、その前に暦について断りをしておきたい。
日本では、暦は明治の初めまで中国依存であったようだ。江戸期に将軍吉宗が、オランダ伝来のつまり西洋暦を導入しようと企図したが、実現しなかった。暦の問題は、実は現代でも避けるのがもっとも賢明である。その理由は、ことさら論ずるまでもないが、3つの難問を解決するだけの天才の頭脳を備えていなければならないからである。
 第1は、高等数学。一言、暦にある閏年を説明出来るか否かに尽きる。1日は24時間か?日の体感は太陽の移動によるから明確だが、季節による増減つまり端数がある。次に1月の日数だが、太陽暦でも28,29,30、31とばらつく。月の体感は、月の満ち欠けの1周期だが、暦と満ち欠けとの間にも端数がある。太陰太陽暦でも大の月と小の月と閏月があった。最後に1年の周期だが、現代世界規模で行われるグレゴリオ暦にも閏年とオリンピック開催年とが正確に重ならないごとく端数がある。
 第2は、天文観測。どの時代にも、どの地域でも、およそ暦には、日食・月食の予知記事がある。暦の頒布は、為政者の行う政治の中でも重要な権能の一つである。しかも、いつの時代も予知どおりに食が起こらないことが為政者の悩み事であった。江戸期以前に改暦がたびたびあった理由の一つである。現代の天文学の知識によれば、過去および将来の食について時間と地域との関係が秒単位で説明できる。食が起きたり起こらなかったり、部分食であったり、時間的ずれが生ずる原因は、日本が明治に太陽暦を導入するまで、中国との経緯度の差を無視して、中国暦(=太陰太陽暦)をそのまま受容したことにある。いつの時代にも天文観測は、膨大な徒労であり、これまた幾何級数的端数計算だから一般人の理解の外である。
 最後第3は、暦と気候のずれ、これは主に中緯度帯の農業者にもっとも関心の高い問題。桜の開花予想が毎年変動するのは常識だが、気象庁や1年1生産周期の農業を営む米作や果樹栽培にとっては実に頭の痛い問題である。わが鳥海山にも「種蒔爺」がある。各地に駒ヶ岳や白馬山があるが、印刷しないだけで正式の暦である。農事暦とか自然暦と言う。
 さて、検討の第5で西暦換算を安易にと修飾したのは、実は天保最後の年の12月に改暦があって、天保15年は弘化元年のことであるとの含みと太陰暦太陽暦との日付換算が高度に複雑なためにコトバのうえで逃げを打ったのである。
 うんざりするくらい長くて中身の乏しい断りは終わった。
 さて、年号の件だが、大化以後、元号と序数の組合わせに加えて、十干十二支の「えと」を重ねて記することがあった。律令時代には、フル重記であったが、時代が下ったり官に縁遠い地方や業域では、十干の記載を省略する例が見られる。元号が1世1元に固定されたのは、明治以降のことであった。
 さて、この事例で検討すべきことを羅列してみよう
 イ 辰を尊重して、12を判読間違いとしたらどうか?
      辰の年は、天保3年と15年(=弘化元)が該当だが、漢数字の三と十二とを
      読み誤ることは、まずあり得ない。十五と十二の間では、二本の横棒の間の
      陰刻欠損であり、可能性はある。しかも、この年は改暦年だが、改元の日は
      12月2日であり(=ウィキペディア百科事典による)、金石文の2月は妥
      当である。
 ロ 辰 コトバの意味は何か?  
      € たつ。十二支の5番目。方角は東南東。時刻は午前8時(前後2時間)
        十二支をまとめて言うことば
      ¡ とき。時刻や日。「時辰」「吉辰(吉日)」
      ¤ 時刻につれて動く天体。日、月、星の総称。「三辰(日月星)」「北辰(
        北極星)」
      ¦ 星の名。水星。「辰星」    以上は,漢字源より転載(抜粋)
      上記の他に、星辰の用例がある。¤の意であろう。
 ハ 暦には、仙台とか、会津とか地名を冠したものがあること
      地名が付いたのは、印刷屋を示したのであろうか?暦の頒布は、幕府の許可
      事項であった。暦の印刷中文字の部分は、許可以外の文言はいっさい使用せず
      絵文字など図案の中に文字を忍ばせる工夫をするくらい気を使ったようだ。
      よって、干支年号の間で異動させる余地は無かったと考えるべき、ただし、実 
      資料による検証は今後の課題とする
 二 天文観測、気象予知の専門家としての速水源一郎
      名主とは、海運業の元締または、廻船の所有者であったろうか?海族の一員も 
      しくは海族の末裔として、月や星の位置を見ただけで季節と日付と時刻がたち
      まちにして判明したことであろう。
      星占いや星座占いの基になった知識は、海族が洋の東西を超えて、海の実業者 
      として地球上の座標軸とその海域での時間軸を正確に把握する必要から身に付 
      けた統合的な知識の体系であった。口外しないし、口外することに益が無い彼 
      らは、地球が丸いことも、月食が18年と11日の周期で循環することも相伝
      の事象として疑わなかったらしい。
      よって、「辰」の文字は、航海民相互間でのみ意味の通ずる符牒であったのだ 
      ろうか?
 ホ 海族特有の暦が、存在したか?      
      元号には、江戸期には該当しないものの、それ以前の時代には、私年号または 
      異年号と呼ばれるものが存在した。水戸学以後は、北朝年号/南朝年号を対立
      させて考慮している。
      干支年号まで異動があったかは、今後の検証課題としたい。
      海族は、地表に暮らす一般民とは生存環境が全く異なるため、独自の暦法を密
      かに共有したことは無いか?
 へ 海生民と山の神信仰とはどう結びつくのか?また、稲荷信仰はどうか?
      山岳民や農耕民に縁のある神だ。これが、現代日本での常識である。
      事実、廃仏毀釈が吹き荒れる以前の時代の信仰はどうだったか?時代を遡っ 
      て具体的に調査を要するのではないか
      これは、天保が大災害の時代であったこととの関連で考察するべきことをまた 
      意味する。
 フィールドワークの中間報告の前半は、そろそろ筆を置くべきだが、この碑が建立された天保年間は、大飢饉(=特に東北日本)、諸国凶作、江戸・金沢・長崎の大火事、諸国洪 
水、越後・京都・関東・陸奥・出羽の大地震、諸国一揆・騒擾・打壊しが多発。海禁政策でもシーボルト事件、モリソン号事件を受けて異国船打払令を見直すなど。そして、大塩平八郎生田万の乱。御蔭参りや豊年踊りが流行するなど。内外他事であった。明治政変への胎動は、既に始まっていた。
 火事は木材需要を、穀類高騰は食糧移送を拡大する。海運業の荷主は、いつの時代も『山の民』や「野の民」であった。遠隔地で異変が起ると遠く古雪にもその余波が及び、荷主との距離が飛躍的に縮まった。石碑はその反映であったかも知れない。筆者の家伝にも合致する時代のうねりであった。
 そもそもうねりのことに関連して補足すると、濡れ浜稲荷のある砂丘は、一冬ごとに地形を変えるくらい強風吹きすさぶ環境である。文字どおり砂丘は生きており、毎年うねるのだ。細字陰刻の石碑裏面に、もっと多くの記事があったかも知れない。石材の性質が柔らかいものであれば、経年の砂嵐で消えたとの懸念がある。また、拓本などの工夫を講ずれば、判読復元文字が増加する期待なしとしない。

次回は、フィールドワークの後半である。エピローグを予告することとしたい