+第4稿

秋田市の南約40キロ山形県酒田市の北約60キロに位置し、日本海に面した地方都市に由利本荘市(=ゆりほんじょうし)がある。この度の平成合併で行政名称が変わり、頭に「由利」の2文字が追加された。同市の周辺が由利郡であったためであろう。このような歴史的地名を保存する命名法を支持したい。ゆりのき(=岩波文庫刊。続日本紀(下)現代語訳p243.文字は由理柵とあり、そのルビ)の地名は、宝亀11年(西暦780年)8月23日の朝廷から秋田城駐在の将軍に対して発せられた回答文中に出てくる。この古代地名に対応する考古学的発見は未だないが、比定地は、同市古雪町とされる。ロケーションとして子吉川の河口に位置し、水陸交通双方の接点を担う。現在は、近海漁業に従事する漁撈船の繋留港である。柵(=き)とは、城(=きとも詠める)や砦に満たない小規模の軍事拠点と考えられる。子吉川は、秋田県3大河川のうち最も南を流れ、源流は山形県境にそびえる鳥海山(=ちょうかいさん。標高2,230m)に発する。この当時の東北に古代大和政権の勢力がどの程度まで及んでいたかを見極めるのは、とても難しい。いつの時代も歴史文献は勝利者の願望を、最前線従軍者の後方向け報告書もまた、論功行賞を意識した妄想ドライブが含まれているものだから、、、日本海側の最前線は、秋田城で、現在の秋田市北西丘陵の高清水から考古学上の遺稿が出ている。秋田城の上級官衙陸奥鎮守府(=宮城県多賀城市)とした場合、陸路・河川経由の連絡ルートとして、もう一つのルートである庄内方面からの陸路および海上経由の拠点としても、この地はリーズナブルである。
 この年は、東大寺大仏開眼から28年に当たり、政情不安定な時期とする見方がある。正史である続日本紀の記事では、3月に駿河、5月に伊豆で飢饉があった。暖かい地方である。そして陸奥国伊治城で蝦夷の反乱が起こった。これからは想像でしかないが、混乱の背景として天候不順などによる食料調達の困難を提案したい。国内外での大規模火山噴火に伴う日照不足などは、世界規模で10年程度は継続するので広範な検証に俟って結論に至る必要がある。その他に、大仏造像に伴う都の環境汚染問題に注目したい。金メッキに使用した大量の水銀による平城京を覆う大気汚染問題は、ゴールドラッシュに随伴するガリンペイロトラブルと同根であれば、平安京への遷都が最良の解決だったのであろう。奈良期末期は、たしかに異常事件が続発した。
 さて、本題はカイゾクの根拠地論であった。由利の港は、その後由利駅が置かれ、由利郷の地名が残り、子吉川三角州に発達した米作耕地の展開を観望しても、揺るがない。北の土崎港(=雄物川河口)と南の酒田港(=最上川河口)との中継中間寄港地として「古雪」は、港湾としての規模も背景流域地の物産集積の要素においても、カイゾクの活動拠点にふさわしい。この場合でも帆船の船足を前提において理解すべきである。船足とは、風向きが予定進航方向に沿って吹いていている、一日航路(=早朝に前泊地を出帆して日没前に次の港に到達するなど)の距離であること、全航路有視界航行が可能であることなどの要件が挙げられる。現代人にはとても実感に遠い。汽車鉄道開通の時代から高速自動車時代の今日では尚更の事である。なお、要件についての時代設定は、紀貫之土佐日記の時代から河村瑞軒の列島周廻航路設定の時代(明治初期年)までとするが、沿海航行においては,ほぼ千年の間帆船である限り、ベースにおいてほとんど変化が無かったとしたい。ただ、北海道の特産品である昆布を近畿経由で琉球・中国本土に運ぶ商業輸送においては、関西方面まで一挙無寄港の長足航海があったことを否定しない。ただし、通年は無理である。冬期の日本海は危険この上ない。
 本日の稿で、空間と時間軸を区切ることが済んだ。次回は、区間移動が関西から『古雪』にワープする。時代は大阪夏の陣の敗北から始まる。