+第3稿

 オーストラリアのメルボルンキャプテン・クックの生家があった。2005年の春、例によっていつもの、サラリーマンの慌ただしいパック旅行で行った。日本人ガイドは、とにかく良くしゃべる人であった。海外旅行はいつも移動のバスで熟睡してしまう。折角の遠征なのに、沿道の風景を見落とす、時には見学先訪問をスキップしてバスに残って寝入り続ける旅になる。その点縦方向の移動となるオセアニア方面は時差がほとんど無いから、日本を夕方発って機中泊を日常の生活タイムのように規則正しく眠って、目が覚めたら朝から行動するというパターンで全く無理がない。それでガイドの話をまめに聴くことが出来た。ショートステイでパートナーを見つけ、長いこと居住するという女性のガイドだった。
 これから行く公園とキャプテン・クックの経歴について、バスの中でレクチャーがあった。この人名は、我がツアークルーにはおそらく初耳であったに違いない。かく言う私も直前になって旅先がオーストラリアと決まった旅である。いつものことだが、どこに行くかは日程と予算の範囲内で、山の神大蔵省であるパートナーが決めてくる。だが、私に限ればクックの名前と何をしたかくらいの漠然とした予備知識はあった。つまりこうだ、オーストラリアとクックの生家・出自とはどう考えても無縁である。この地に生家があるはずが無い。ミス・マッチの悪い冗談だ。日本語文法の「れる・られる」問題じゃないが、オーストリアとオーストラリアの違いは、わずかに一字だが、地球半周くらいの運賃追加を招くミス・マッチなんだ。
 私の記憶では、この国の歴史の冒頭にクックの名は領有宣言をした人物として出現する。これは漠然とした記憶だが、98年頃オーストラリアの歴史書を読んでの知識だ。前年ニュ−ジーランドに旅行した後のことである。この時、エージェントの都合で、シドニー空港でのトランジット缶詰めに遭った。この時全く良い印象は無かった。それを再確認するために簡略な通史を読んだ。日本人が書いた日本人向けの新書だから実に安直であった。白人が横書きしたタネ本を縦書き文字に置き換えたような商業主義の匂いしかなかった。白人しか出てこない、時間軸しか無くて空間軸についての考察がまったく乏しい「ブス本」だった。おそらく方向音痴の著者が書いたのだろう。 
 この国の歴史は冒頭において、この国に最初に住んだアポリジニの入国から
書き始めるべきである。事実は事実として記述するのが、まともな史書である。それを欠く史書を持つ2つの国、それは合衆国と大洋州のことだが、いずれも海賊が上陸してクニになった共通点を持つ。この2つのクニの住人の歴史観にはおおいに疑問を感ずる。著者の感慨のベースには、アンチ白豪主義がある。それは、物故した高坂正尭氏が著書の中で、タスマニア人の絶滅について書いたのを読んでからだ。あくまでも筆者なりのイメージである。高坂先生は歴史上の事実として、偏りの無い立場で記述している。客観的立場は優れた社会科学者に備わるべき資質の一つである。タスマニア人に起こったこの国の悲劇、それは日本の開国とほぼ同時期に進行した先住民虐殺だが、その事実を歴史として記述しないのは、被占領60年の屈辱を報道しないどこかのクニのマス・メディアと同根なのかも知れない。この種の悲劇は南アメリカでもインドでも南ヴェトナムでもイラクでもあった進行中の人類史の汚点だ。
 ダーティなものを抱えた国だと言うオーストラリアについてのイメージは若い時に抱いた。植民地問題は、いつか詳しく知りたいと思っていた。そう志を決めたのは20代のことで、40年くらい前から続く。経済学を学んでいながら、金儲けの技術は全く身に付かず、この学問はどこか根本において狂気がある。それを生涯かけて解明したいと思っている。
 さて、ガイドの言うには、こうである。日本人で聖徳太子を知らない人が居ないように、オーストラリア人なら誰でも知っている偉い人だと言う。
 クックの生家が、ここメルボルンのフィッツロイガーデンにあるのは、素封家の寄贈によるものらしい。とある年のメルボルン市の開設記念祭の目玉行事のひとつとして、ある財界人が英国から購入して寄贈している。因にメルボルンは、オーストラリア第2の大都市で1956年の11月に南半球初の夏季オリンピック(=北の冬は南の夏です=蛇足の注)が開催された。ヴィクトリア州の州都、1850年頃ヒンターランドで金が発見され、開港の機縁となった。よって、キャプテン・クックと直接の関係は無い。ミニ・サンフランシスコのイメージだが、港としてのスケールはこちらが大きい。筆者の参加した格安全行程アゴ・あし付きパックツアーは、中国人街を行列移動する旅でもあったが、貿易に長けている彼らの生活拠点は、港町に必ず備わっていることを再確認した。
 この稿を終わるに際して、事のついでとして、クックの生い立ちを転載しておく。出典は、岩波文庫クック太平洋探検(一)末尾の解説2である。訳者は増田義郎(2004年刊行。全6冊刊行完了は2005年7月。因に、著者が旅行したのはこの年の3月)である。
 ジェイムズ・クックは、1728年英国ヨークシャ北部の農場監督の次男として生まれた。父はスコットランド出身の農夫らしいから、当時の平民出身の者の常として正規の教育は受けていない。15歳くらいまでは、父と同じ農業に従事したが、17歳頃に縁を頼って石炭輸送船の年季奉公船員に転じた。24歳の時には航海長に就任、間もなく船長に昇進した。しかし、29歳のとき海軍に転じた。船長から一介の海兵(=平水夫)への転身。しかも、階級制の英国では海軍士官は、貴族かジェントルマンの子弟が、士官候補生として入隊し、試験を経て就任するものとされており、何とも腑に落ちない転身と言えよう。彼の場合結果として1768年40歳で海軍士官に昇進した。と言ってもエリートではなくマスターと言う実務叩き上げ熟練者のコースであった。異例の出世は、1に海事測量に関する技量において海軍随一であったとも、また7年戦争(1756〜63。ただしオーストリアプロイセン間。英仏間では55〜)の従軍における人脈が奏効したとも言う。世に言うクックの探検航海は述べ12年(=1768〜80)に亘り3回に分けて英国海軍から派遣された。クックは、第3回の航海途上の79年にハワイ島で原住民との戦闘で死んだ。51歳であった。
 以上が、3回に及ぶ筆者とクックとの出会いだが、ニュージーランドについては割愛する。ここには、クック海峡(=南島と北島の間。首都ウエリントンの前の海)、クック山(=最高峰)、ダウトフル・サウンドなどクックに因む地名がある。
 次回は、カイゾクについて論ずる予定だが、それは筆者のルーツ論であり、クックに関して言えば、産業革命前史としての大航海時代論であり、と同時に資本主義経済社会の誕生がなぜ人類の幸福からみてボタンの掛違いになったかを論ずる事になるであろう