*[カイゾク研究]+第5稿

*[かいぞく研究]+第5稿
 古雪地区には、当地でも最古開創と言われる浄土真宗の寺がある。寺院と言うものは、時代や地域を問わず普遍に存在する。宗教・信仰は、人間の本能から発するものだから、世界中にあまねく見られる。見た目には様々な違いがあっても、いつの時代にも絶えることなく在り続けるのであろう。このクニは仏教圏に属すると言うが、それはどうだろうか?世界宗教性を備える仏教が神道と習合したとするべきであろう。神道を土着の信仰として、外国に対して覆い隠すべき存在と考える人も居るらしい。祖先をカミとして信仰することもまた世界的普遍性を持つものだが、この場合の普遍性とは、誰にでも先祖が居ると言う意味であって、宗教としての世界性を意味しない。世界性の対極にあるコトバは排他性であるとして、イスラムとキリストの争いが絶えないのは、平和を願うものとしておおいに疑問である。この答えとして、近親憎悪を挙げるもの=信者の居住地域が重なったり、近かったりもそうだが、マホメットの家系はキリストの家系と重なる。とか、教義が共通であることを挙げるものとか、、、、、、。門外漢である筆者は、確言するべきものを持たないが、祖先信仰は即ち一神教とする先人の見解は、理解しやすい。イスラムとキリストの教義は、ほとんど同じようであるが、寛容さにおいて仏教の方は、とても懐が広いような気がする。 
 宗教の常で、分派が多い中でも、浄土真宗は最も排他性が乏しいように思える。世間に「門徒もの知らず」なる罵声があるとか?親鸞は有髪・妻帯の僧侶であったと言うから、その世界性はこの伝承に尽きるのではないか?ここでの世界性とは汎事無用つまり儀式や体裁に拘らないという意味である。プロテスタントよりも簡素な精神を持つのではないかと考える。しかし、現代の檀徒が見る寺は、徳川幕藩体制下のそれであるから、形骸化の残滓は歴然である。明治以降に戸籍管理の事務を奉還返上したが、かつて約300年に及んだ権力機構の手先であった時代の悪弊は遺制として残っている。それは、寺院本来の役割であるべき民衆の精神救済やサンクチュアリ(=権力から迫害された者をかくまうシェルター)としての活動が回復してないからである。一部には葬式仏教なるコトバがあるらしいが、現代日本人のパラダイムが、物質的豊かさの追求に傾いている現状からして、宗教家を批判する悪罵とばかり採るべきではなかろう。
 さて、この古雪の古寺には、徳川早期の宗門人別帳が残っている。そこに我が家の屋号が載っている。40数年前のことだが、高校生の頃図書館にあった郷土資料で見たのである。物的証拠らしいものは、それだけである。次なる検証は、家伝との照合だが、さしたるものはない。
 1、屋号だが、私の子供時代は、親戚同士そう呼び合っていた。
   商売をしていないから家号とすべきかも知れないが、徳川時   
   代を通じて行政サイドからはそう呼ばれていたのであろう。
 2、家のある土地は、徳川早期から今日まで不変である。郷土資
   料館には、古雪地域の藩政時代の古図がある。そこにも同じ
   家号が載っている。
 3、その古図は、地域を支配する大名がその地域を特別の行政区 
   割地区と認識していたことの反映と考えるべきである。
 4、先祖伝来の土地は、古雪の大通りから1本退(=さが)った 
   通りに面している。大通りとは、船付場から大町へと続く中 
   心商店街であり、この地域の道路割について、ここでは子吉 
   川を基準として平行するものを大通り、直交するものを細い 
   通路としておく。現実に大通りは太いが、拡幅時期は不明。
 5、退るとは、川に対して遠いの意味であり、大通りの建物敷地
   の裏側と川の間は長いこと氾濫原として日常は利用しない荒
   地であったと思われる。
 6、以上から、伝来の土地は、古雪地区における1.5乃至2等級
   のレベルの商家が、店を張る街路に面することになる。
 7、古雪大通り(=筆者の命名した仮称。以下のデータは筆者の 
   目測記憶による)は、西端が埠頭で日本海との合流点つまり
   河口から1キロ内外後退した河川内埠頭から始まり。内陸つ
   まり東方向に川筋とほぼ平行して走っている。総延長約1キ
   ロ道幅最大8メートルの規模だが、江戸初期の原型をそのま 
   ま保存していると仮定したら、当時としては土地柄不相応の 
   大きなスケールと言えよう。
 8、古町大通りの総延長を1キロとしたのは、東の端にある小さ 
   な小川までを設定したのであって、実際の通りは、市の中心
   商店街である大町や中町まで連続している。しかし、藩政時 
   代には、小川の位置に木戸が設置され、そこが城下町と古雪
   との区分境界であったろう。
 9、要するに古雪は、地理的には川と田んぼと木戸のある小川と
   により周囲と区分され、藩庁からは特別の木戸をもって特別 
   扱い、現代風に言えば港湾地区か保税地域のように人為的に
   区画割りされた存在であった可能性がある。
 10,幕藩大名がこの地に定着するのは、元和6(=1623)年以 
   降のことだが、この時既にして現地人とは異なる一団の組織
   された集団が存在したのではなかろうか?
 11、この古雪衆(=筆者の命名した仮称)が、当時の当地人と 
   異なる点は多々あったであろうが、最も相違する点は船を持 
   ち域外と交流しつつ、一族として農業経営も分担経営してい 
   たことである。
 12、我が先祖の信仰に触れざるを得ない。まずはこの宗門人別 
   帳の寺の檀徒である。つまり、浄土真宗である。
   また住吉神社の氏子である。ここで特記すべきはこうだ。
   寺の所在地は、古雪大通りの東端にある。例の木戸のある小 
   川が寺地の東縁である。埠頭に最も遠いから先祖もさぞ休め 
   るか?そんなことではない。この寺に接して寺地の南に春日 
   神社がある。更に接してその南に家のある先祖伝来の土地が 
   ある。寺地や境内地ほど広くはないが、要するに隣接地の神 
   社の氏子ではなく、遠く埠頭の方にある住吉神社に所属する 
   のである。
 13、寺といい神社といい、このことに関して我が家に特別の家 
   伝は無いが、この事実から導きだせる事実は、カイゾクと住 
   吉信仰と浄土真宗とが見事に重なることである。
 14、記録によれば、この寺の開創は文明4(=1472)年のこと 
   である。京の都を中心に応仁の乱(=1467〜77年)が起り
   、浄土真宗においては中興の祖と言われた本願寺第8代留守 
   職蓮如が越前吉崎に逗留(=1470頃〜75年)していた。
 15、当初の寺の開創地は、市内の内越(=うてち)といい、子 
   吉川の支流芋川(=いもがわ)の流域に当たる。比定地は不 
   明だが、下克上の時代相と都の争乱による秩序の紊乱、宗教 
   界における真宗迫害の時代状況を思うとき、教団の組織力を 
   もって農地開拓による安住の地開村の動きがあったと考える
   ことに無理はない。そう、郡名は『ゆり』ですから???
   因に越前吉崎は、石川県加賀市に当たるが、ここでは中央公 
   論社の記述に従う。また、加賀一向一揆は、2年後の1472
   年に守護代の首を落すまでに高まったことを申し添える。
 16、さて、次は神社だが、住吉神は摂津(=大阪市住吉区)壱 
   岐(=長崎県)筑紫(=福岡市博多区長門(=下関市)な 
   どの重要港湾に設けられた航海の神であり、日本書紀・続日 
   本紀など古代朝鮮半島との交渉史に出現する。要するにカイ 
   ゾクが信仰する神である。
 17、真宗教団は、航海者などいわゆる最下層の百姓クラスによ   
   り支持された特に内部結束が強固な信仰組織だった。加賀一 
   向一揆(=1474〜1580)においては百姓の自治組織による 
   領国支配が信長に滅ぼされるまで続いた。
 18、さて、最後に古雪衆の選出した幕末期の名主に速水源一郎 
   なる人名がある。ハヤミと詠むか?それともハヤミズと詠む 
   か?文字表記からは判読困難だ。因に我が先祖にそのような 
   人名は出現しない。
次回は、太閤記に出現する速水甲斐守と古雪衆との関係を論じたいと思う。
 なお、キリスト教を氏族信仰とするのは、和辻哲郎「風土」(=岩波書店刊)や久保田展弘「荒野の宗教・緑の宗教」(=PHP
新書)による。
 また、百姓については、網野義彦「日本の歴史をよみなおす」(=筑摩書房刊)による。
 そして、一向一揆については、井上鋭夫「一向一揆の研究」(=吉川弘文館刊)による。