+第3稿=本論の2日目

 筆者は、99年はじめてハワイに行った。太平洋に浮かぶ孤島が、観光の一大拠点になったのは、ごく最近のことだと思う。航空輸送の大衆化、もっと具体的に言えば、ジャンボ・ジェット機の出現した以後に起こったことである。大量輸送機の定例運行と離島の観光産業化は同時進行した。航空機の実現は、ライト兄弟の人類初飛行(=20世紀の初めであった)に由来する。飛行機という高速移動手段の出現は、地政学の常識をも根本から洗い直すこととなった。このような人類史上の大変革を輸送革命と呼んで良いだろう。しかも、自動車の普及がほぼ同時代的に進行したことを思い出せば、この世紀は石油文明と呼び、輸送革命が実現した世紀であった。
 日本のような長期休暇の普及が遅れた社会では、船の時代のハワイ旅行は、全く手の届かない夢でしかなかった。動力船の出現は、更に100年ほど遡る。蒸気船が最初に大西洋を横断したのは、1819年のことである。
 ここであえて動力船の話題に触れたのは、キャプテン・クックの時代が更にそれから150年ほど遡る1770年前後の帆船の時代であったことを導くためである。クックが都合3回通算12年の航海に乗船した2隻の軍艦は、石炭輸送船に改造を加えたものだ。積み荷の石炭は、産業革命により出現した大工場の燃料であって、彼の時代に動力船はついに出現しなかった。動力船と帆船の決定的な差は、風待ちの問題である。現代人にはどう努力しても実感とならないが、行きたい方向に適した風が吹くまで、つまり、風向きが変わるまで何十日もの間「果報は寝て待て」という気の遠くなるような待機の退屈さが当たり前に強いられる。1787年ゲーテは、ナーポリから目の前のシシリー島に渡るが、入港地のパレルモまで直線距離約160海里(=300キロメートル相当)を5日間かけている。途中で風向きが逆になったり、嵐が来たり、相当に気をもんだらしい(岩波文庫「イタリア紀行」)。
 さて、ハワイイ旅行の目的は、キラウエア火口を見ることだったが、家族の希望に付き合って、シュノーケル潜水の半日ハイクに行った。そのツアー船の繋留海域がケアラケクア湾つまりクックが上陸した入江であった。ビッグ・アイランド西岸コナ埠頭から13.5海里(=25KM)ほど南である。この湾は州により自然保護地域に指定され、漁獲や上陸・立入りが制限されており、停船して海中生物をウオッチングするスポットになっている。湾の突き当りは、高い絶壁となっており、全く取り付くことは無理だが、その北側にはほぼ水面の高さの平坦な岩場があって、その中央付近に白い石碑が建っている。船から泳いで行って、上陸しようとしたら、ボートに乗った監視員らしい男に注意され、上陸を阻止された。旅行が終わって帰国してからトラベル・ガイドで調べたら、キャプテン・クックの上陸地であり、最後の地であることが判明した。だが、この時は、未だキャプテン・クックという名前を記憶に留めた程度の関心であった。では、ここでクックに何が起こったのかを概説しておこう。
 クックは第3回航海の途上、チュコート海(=北極海に属す、ベーリング海峡のすぐ北の海域)調査を打切って補給のためハワイに立ち寄った。ハワイ諸島ビッグアイランドのこの湾付近の上陸地で、突発した現地人との戦闘において死亡した。第3回探査航海の使命は、北アメリカ大陸の北側を通って太平洋から大西洋に抜ける航路を発見することであった。現代の知識では、それは商業ベースとしては全く無理であり、ロシア軍砕氷艦か潜水艦による冒険航海が行われる程度の意味しか無い。現代の常識は、先駆者の努力により得られた結論だが、クックはその結論を得るための探検時代におけるパイオニアの一人である。クックにとってのハワイは、楽園ではなかった。この時与えられた使命はまだ未達成であった。補給を急いで再度トライするか?それとも未逹のまま帰国の途につくか?船団の最高責任者として思案は揺れていたはずである。
 1776年7月母港は英国のプリマスを出帆して以来既に31ヶ月が経過し、頼みの綱であるマストもこの時陸に揚げて修理中であった。船団の指揮官がどちらの命令を下すか、部下の海軍士官から末端水兵の飯炊係の果てまで、すべての乗組員が固唾をのんで待っている。さなかの1779年2月14日彼は突然に戦死した。
 太平洋は、平和の海という意味である。命名者はマゼランである。彼もまた航海の途上で突然死しており、世評の常識に反して彼個人は世界一周を果たしていない。この大洋は名に反して大航海者の生命を突然に奪うようだ。
 次回は、筆者とクックとの出会い第3弾の予定です。