+第2稿=本論の2日目。

さて、クックと筆者の関係だが、10年前に遡る。1996年カナダに旅行した。事前学習はしない事にして、いつも予備知識なしで、現地に飛び込み、そこで疑問や関心が沸き上がったら、その事について詳しく知ろうと努力する。勤務の関係で、最大でも連続9日程度の休暇がやっとであったし、必然としてパック団体旅行の旅となるが、その気楽さから来るものとも言えよう。
 この時は、ロッキー山脈に氷河を見に行った。入出地はヴァンクーバーであった。ブリティッシュ・コロンビア州の州都があるヴィクトリアにも日帰りで行ったが、これは、ヴァンクーバーの対岸つまりファン・デ・フーカ水道を挟んだ美しい多島海の中にある。最も大きなこの島の名もヴァンクーバー島という。ヴァンクーバーの地名は、人名に由来する。だが、96年当時は、ヴァンとかフォンとかの称号みたいなものが頭につく名前は大陸人であろう。カナダ建国の歴史から勝手にフランスの探検航海者だろう。と勝手に決めつけていたが、クック航海記に士官候補生として出現した時点で(=2005年になって)、自らの迂闊な思い込みを訂正した。クックの航海には、第2回と第3回の両方に参加したイギリス人である。第3回の航海は、ジョージア湾の前を通航しただけで進入して調査する事はなかった。これは、クックにもっと大きな使命があったため湾内深く入ることを避けたのであり、この時の未解明の課題を決着するために、1792年の探検航海は、ヴァンクーバーが指揮をする責任者に指名された。この事がこの地に彼の名前を残すきっかけとなった。
 ヴァンクーバー港は、世界有数の天然の良港であり、日本人には最も縁のある町である。日本から北米大陸を目指した場合、最も距離的に近い地理上の位置にある。同じ湾内にシアトルがある。野球のイチローが活躍する場として知られるが、アメリカ領で未だ行った事がない。シアトルなる発音は、まさに和声米語で現地では通用しない。中国最大の河川「長江」を揚子江と勝手に命名するなど、日本人には現地を無視する嫌いがある。話をヴァンクーバーに戻さねばならない理由が一つある。それは、新渡戸稲造のことである。かつての5千円札の肖像として国内ではほとんど無知の存在だが、彼の活躍の場がヴァンクーバーであり、最期の地もまたヴァンクーバーであった。帰国を胸に隠して最も日本の地に近いヴァンクーバーで頑張ったというのも印象深い。東北人で札幌農学校に学んだ彼はおそらくズーズー弁であったろう。コトバの上で彼は生まれながらにして国内ではハンデがあった。それが、国際連盟の次長にまで昇りつめた原動力であったかも知れない。戦後版の国際連合の事務次長を勤めた明石康史もまた東北人だが、本題からこれ以上離れたくないので、ここではキャプテンークックの周辺にいた人物としてジョージ・ヴァンクーヴァー(1757〜98)の存在を心に留めてもらいたい。
 次回第3稿は、引き続きクックと筆者との出会いの話だが、舞台はハワイイに移ります。