北上川夜窓抄 その35=菅江真澄・続 作:左馬遼 

北上川の川面を渡り、その畔に足を踏み入れた人物の評伝として、前稿に引続き菅江真澄を採上げる。
菅江真澄は、大いに謎に包まれた人物である。
本名を白井秀雄<1754〜1829>と言い、三河国<現・愛知県>岡崎または豊橋に生まれ、出羽国<現・秋田県>角館または田沢湖の付近で最期(享年76歳)を迎えた。
謎の第1は、やはり旅行の途次その旅先で物故した事である。
旅の概要を略記してみよう
30歳の時に故郷を出て、信濃〜越後〜出羽〜陸奥津軽と。地形に沿って最短距離を移動して、目的地である蝦夷地を目ざした。津軽海峡渡海の直前に青森にある善知鳥<ウトウ>神社に詣った際、そこで3年間渡道を俟つようにとの神託が下った(この時32歳)。
そこから南下して、出羽国久保田藩領を経て、陸奥国南部藩領に入った。陸奥は歌枕の地であり、仙台・松島などを歴訪して、旅の記録=日記を作成しつつ3年間が経過した。
南部藩領を北上し、津軽藩領に再入国。津軽半島から津軽海峡を渡って、対岸の蝦夷地福山(現・北海道松前町)に達する(この時35歳)。
旅の目的地である蝦夷地で、各地を巡行し旅日記を残す。在道4年となる。
津軽海峡に臨み、対岸の下北半島(現・青森県大間町付近)に上陸(この時39歳)。
その後、恐山や八戸など、南部藩領である下北半島各地を巡行し、2年ちょっとを過ごしつつ旅日記を記した。再度、南部・津軽藩境を越えて津軽領に3度目の入国を果し、この地の藩都弘前城下(現・青森県弘前市)を中心にこの地にてほぼ6年以上を過ごす。
その後、津軽から出羽国久保田藩領(現・秋田県)に南下。
享和元・1801年(48歳)から、その地で物故する文政12・1829年(76歳)まで。約27年間超を藩都久保田城下(現・秋田市)に在住しつつ、領内各地の地誌編纂事業に従事する傍ら、これまで書き溜めた旅日記・絵図類<=草稿類>を整理し再編集した。
以上が旅の概略である。生涯76年間のうち後半の連続約46年間を東北・北海道の地で過ごし、旅先で死去した。
この旅を通じて、菅江が残した日記・地誌・絵図・随筆などの著作は膨大だが。
そのうち自ら秋田藩校明徳館に献納した89点<国指定の重要文化財。個人の寄贈により現在は秋田県立博物館蔵品>と49点<秋田県指定文化財。真崎勇助氏収集など。現在は大館市立栗盛記念図書館蔵品>が有名である。
この他、国立国会図書館蔵品など各地に分散するもの多数ある。
一説に総数4千首の和歌が旅先で詠まれたとするなど、未発見のものが多数あるとされる。
さて、現代と異なり、身分制厳しく、社会的統制が重かった時代に、かくも長い間、故郷を離れて流浪する者は珍しかった。
菅江は、30歳で故郷を出た後、一度も帰省する事が無かった。これは、結果としてそうなっただけかもしれないが、やはり謎ではある。
旅に基礎を置いた文化人と言えば、松尾芭蕉だが。芭蕉の旅は、故郷を何度も出入りしたり・立寄ったりしているので、少し趣きが異なる。
身を置いた位置は、和歌・俳句ともに韻文文学であり。両者の関係がひらたく言えば親子のような出自にあるとすれば、共通の要素が多いと言えそうだ。
菅江の旅は、芭蕉の旅から約百年ほど後の世の事だが、依然として各地の俳諧連歌は盛んに催されたようである。しかも旅先で知音・便宜の伝手を得ようとすれば、俳諧連歌の席などで親交を深める事であった。芭蕉も菅江も似たような旅をしている。窮地に陥ったときほど、地元名士の影響力に頼る事で救われる事が多い。
いささか余談だが、菅江が実際に窮地を脱した事例を紹介しておこう。
享和元・1801年に菅江(時に48歳)は、大間越の関所を越えた。この時、津軽藩領内は西津軽郡深浦の豪商竹越氏の一族の者が同行する事で、ほぼ無難に陸奥から出羽国へと越境を果したらしい。
大間越とは、津軽西街道の関所。日本海に面し、隣藩・佐竹藩との境界を為すルートであり、付近に根拠を持つ船問屋が同行する事が最善策であったらしい。
と言うのは、ただ通関するだけでなく。能代港(現・秋田県能代市)の船問屋・尾張屋伊藤氏に7日間、土崎港(現・秋田市)の同じく矢守家に12日間滞在と、悠々と計画された護送プラン=案内人付きの旅程であったからだ。
その背景を更に抉ってみよう
菅江は弘前滞在中に津軽藩の委嘱を受けて、地元の人に本草学の手ほどきをしながら領内を同行しつつ薬草採集して旅した事があった。
その際、薬草採集のみに専念しておれば、何ら嫌疑を受ける事は無かったろうが。彼は、地域住民に色々の事をインタビュウしたり・メモしたり、藩当局の治安関係を刺激する怪しい行動があって、後に手持ちの旅日記・絵図の草案類を没収されたことがあった。
蝦夷南部藩領内で蓄えた貴重な手元資料は、運動したにも関わらず。一部のみ返却される事態をもって終ったらしい。
菅江が、薬草採集のため探索旅行した地域は、八甲田山の麓だが。その地域は、隣藩・南部藩との藩境付近。いわゆる危険ゾーンであった。
そのような地域固有の歴史的に入組んだ屈折した事情を、遠く中京方面からの旅行者である菅江は知りようもなかった。
南部・津軽の両藩は、隣り合って領国支配しながら、藩祖の血縁において、いわゆる同祖同族の関係にあったが、津軽藩成立以来、深い対立関係にあった。
津軽藩は、織豊政権〜徳川幕藩体制への秩序転換を機に独立大名家に成長した。
しかも、その後一時期。知行高や官位叙任において津軽が南部の上を占めた時代もあって、両藩の関係は常に緊張をはらんでいた。
具体的に、下記の事件例を示すが、いずれも菅江は知りえなかったであろう
 ◎ 檜山騒動 正徳4・1714年(生前、約40年前)
   糠部郡野辺地・烏帽子岳周辺の境界線をめぐる領地争い、幕府の裁定をもって決着へ
 ◎ 相馬大作事件 文政4・1821年(68歳、在・佐竹藩領内)
   参勤交代の途次にある津軽藩主を藩境付近(現・秋田県大館市白沢)で襲撃しようと企てたもの。首魁は南部藩士下斗米秀之進とされる未遂暗殺事件
現代人には思想・行動の自由があるので、幕藩時代のパラダイムを理解しにくいが、菅江のように流浪にあって・身分属性がはっきりせず・しかも多才・異能の人物は、疑われる事が多かった事であろう。
そのような場合でも、藩庁との間に立って、織りなしたり・没収物の返却をお膳立てしてくれたのは、地元土着の名士豪商たちであり、和歌や俳句で得た知己であったことだろう。
今日の稿では、冒頭で”謎”を提起しておきながら、”落ち”を見る事なくもう筆を置く頃合いだ。
がしかし、故郷への回帰を取りやめ・秋田の地に落ち着き死を迎えてしまったなどの遠因。それ等は、いずれもこの津軽時代に得た知友との関係にあったのではないだろうか?
とまあ、ヒントめいたことを述べて明日に繋ぎたい