北上川夜窓抄 その33<遠野・番外編=通算第5稿> 作:左馬遼 

遠野は北上川の流域都市である。
遠野物語は、日本民俗学の創始に寄与した柳田国男の大著だが、著述の主要テーマたる山人研究は、やがて終結を見ないまま間もなく放置されてしまった。
その原因・背景をさぐろうと。この稿を書き始めて、本稿はもう5稿だが、ファイナル番外編にして、脱漏を集めたメモ稿でしかない。
まず、侵入生物学だが。最新リリース分野であり、筆者には遠く手の届かない領域ながら。これまた最近の著作である「サピエンス全史」の中に、現世人とネアンデルタール人との邂逅を採上げているようだから、文化人類学直近の課題であるかもしれない。
さて、遠野物語はそこそこの反響でしかなく。山人伝説についての関心を多くの人に呼び覚ますことはなかった。
その当時の国情を現在から慮ると。日清・日露の戦争<1895&1904〜05年>を経て、軍国ニッポンの関心は、ひたすら海外への権益膨張に向かっており。冷静に足元を見つめようとする柳田の提言は、大衆の胸には全く届かなかったらしい。
因みに、日露戦争の方は、国内的には勝ち戦とされるが。おおいに疑わしい。
日本海海戦は世界海戦史上3大会戦に挙げられる大勝だが、そのような戦局面<=戦争の一場面>の勝利をもって、戦略マター<=戦争の全域スパン>の成果に拡げることには無理がある。
日露双方とも息切れ状態にあったから、USAの休戦調停に応じたのだ。その結果、我が国には前代未聞規模の膨大な外債借財が残った。
現実に即して事実を直視しない風潮。自己の求めるものしか受止めようとしない風潮が、既にして国民病的レベルに肥大しており。平和から遠ざかり・一方向にのみ猪突猛進する国勢が定着しつつあった。
さて、脱線から戻ろう
民俗学の考究においても、受け手である大衆の無関心なテーマを追い続けることはむずかしい。軍国パッション・ブームの中で、滅び去って行った弱者=先住民を掘下げることは、時代風潮から無理があった。遂に棚上げされることとなったらしい。
次は派生的な脱漏メモである。
先住民を考えることは、現生人類や日本人を考えることでもある。
日本人の成立についての論稿として、加藤典洋(のりひろ 1948〜 文芸評論)氏の著作「可能性としての戦後以後」(岩波1999刊に所収)がある。あまりに論理構成が複雑で雲と霧の中を漂うような読後観がある。
この著作の難解な理由について。吾が友人は、単元唯一の神話的ドグマに呪縛された者達からの批判を畏れて、ストレートな表出を避けており、論点が複雑骨折しているだけと論評した。
筆者が、ここで述べたいのは、山人テーマと絡めた新撰姓氏録への着眼・紹介である。
新撰姓氏録について、いささか釈迦に説法だが、型どおり再説しておくとしよう
新撰姓氏録は、平安初期に成立した氏族系譜集成である。
当時の畿内に在住する1,182氏族を3つのカテゴリーに区分して載せてある。と言う
 ◎ 神別とは、古来から列島に住む倭人の子孫・・・・国つ神&天つ神を先祖とする
 ◎ 諸番とは、渡来人系出自の列島居住者・・・漢人百済人・新羅人高句麗人・任那
 ◎ 皇別とは、天皇家に連なる者
この系譜集成は、弘仁6・815年時の嵯峨天皇に撰進されたが、その編纂事業は桓武天皇の命により、先立つ16年前<延暦18・799年>から始まっていた。
このような氏族志編纂事業は、奈良・平安時代を通じて歴代の天皇が復元させようとした国レベルの大事業であった。その根底には、645年の乙巳の変<古い受験日本史では大化の改新と習っている>の際の蘇我蝦夷による国記の焼亡があるとされる。
この新撰姓氏録の成立もまた、757年に挫折した先行事業のアトを引継ぐ形で完成をみた労作と目される。
平安初期の日本人観と現代の日本人観とを混同・同視=遠近法的倒錯<上掲書94・35頁>してはならないと加藤氏も力説しているが。当時の社会混乱は、氏族系譜の詐称から生じたとするよりも、半島と変らぬような多民族雑居の列島居住民のありようから起っていると解するのが相当であろう。
この氏族系譜集成は、居住民を3つに区分して扱いたい為政者のイデオロギー=秩序観を反映している。
だがしかし、列島誕生以来の土着の民は存在しない以上、先・後は別にしてすべての居住者が渡来系である。
その到来順は、おそらく上掲の順序で。主に西方の大陸・半島の原発地から、この列島へ渡来し・定着した。
最も遅い時期にやって来たカテゴリーの人々は、あえて騎馬民族なるタイトルを冠することを避けるが、軍用馬を乗回し鉄製武器の操作に特化した、ごく少数から成る強力な戦闘集団であったと考えたい。
さて、大陸性島嶼として成立し花綵(はなづな)列島たる日本列島に地理学的に似るイングランドの島だが、ユウラシア大陸の反対側に位置するだけに、ともに似たよう歴史がある。
世界史で、ノルマンコンクエストで知られる。
1066年フランス国の一地方豪族であるノルマン候が、イングランドに上陸し。その後武力討伐により、イングランド王家の祖となった。
更に。ケルト民族住民から成るウエールズスコットランド&アイルランドの一部を併合して、今日の大英連合王国となった。
続く英・仏間百年戦争の原因は、フランス諸侯の一人が同時に英国国王を兼ねることより生じている。
ここでまた似たような紛議の事例を憶い出す。
幕末期、パリ万国博覧会に、薩摩藩主が琉球国王を名乗って出品し、幕府公使団と対立している。
世界と日本を並列に考える場合、皇別・王家などの家系承継について、男子系統のみを正統と限定すべきではない。
言わば、男・女ともに血筋に連なる一族=双系制相続とした場合、ノルマン候はイングランド王家の祖として現在のエリザベス2世に繋がる。ことになる
世界史を俯瞰した場合、男系に拘った例としては、半島李氏朝鮮と列島徳川幕府がある。ともに朱子学系の儒教に立つ権力で、考え方が頑なである。
新撰姓氏録の成立に深く関与した延暦天皇は、遡ると6世紀の継体大王の系譜に連なる。継体大王の即位は、双系制に立てば、前権力の承継であるとも言える。
更に、延暦天皇は、高野新笠を生母とする史書があるが、いわゆる渡来系出自の女性であるらしい。
しかも、延暦天皇は、平安奠都を実現した剛健な統治者だったが、系統的には前王朝の奈良王朝とは、家系が少し遠く。始祖はいわゆる天智大王である。
前王朝の奈良王朝は、最後の称徳天皇<=女帝、聖武天皇の娘>に継嗣が無かったので、この直系血筋は絶えた。
因みに、奈良王朝の始祖は、天武&持統の両天皇だが。この夫妻は、壬申の乱で勝利つまり天智大王の近江王朝を武力討伐して、権力の地位に就いたが。天智大王と天武天皇とが、兄弟であったとする史書の記事を信ずることはどうであろうか?むしろ少数強力戦闘集団の内なる者同志であったとした方が穏当ではないだろうか?
要するに平安王朝は、近江王朝を再興した家系として、氏族系譜集成の編纂に格別の政治的使命を担わせていたようだ。
最後に、遠野で有名なものは、猿ケ石川のカッパである。
筆者の手元に、「河童駒引考」<岩波文庫・青193-1。1994刊>なる著書がある。著者は石田英一郎(1903〜68)、本邦における文化人類学民族学の基礎固めをした、これまた巨人である。
この著書は膨大なボリュウムである。当初昭和19・1944年柳田国男古希記念論文集に寄せる論稿として執筆されたが、所定枚数を遥かに超越したことから、1947年加筆補訂により独立出版に向かった事情がある。
この大論文を筆者なりに曲解すると。ウマやウシを川の中に引出すことは水神への供儀としての意味があり、ほぼユウラシア大陸全域の規模でみられる事象である。と言う
余談だが。石田の希有な経歴とずば抜けた博学・多識と広大・無辺な研究姿勢に驚ろかされた。