北上川夜窓抄 その29<遠野> 作:左馬遼 

北上川の源流は、複数あるとされており、いずれも訪れた。
分水嶺の向こうは,馬淵川(まべちがわ)の流域であり、ほぼ未だ踏込んではいない。
だがしかし、それでも岩手県は広い。
実際にマイカーで走ってみた感覚と厳然たる事実とが、時々・度々に食い違う。
間違ったことを書くのではないかと畏れつつ、観た眼の危うさに愕然とする。
今日から遠野のことを書く。
執筆する前に,基本的な情報を抑えてみようと思い立った。
その途中、かつて自分が抱いていた思い込みの間違いに気づいた。
ドット落ち込んだ。ドントハレとは言い難い
さすがに、一県で四国ほどの広さを持つ岩手県のスケールに感心した。
一関からスタートして遠野に向かって走ったが、山越えのしかも真っすぐに目的地に向かわない山道で時間を取られて、遠野市街を散策する時間はもう残っていなかった。
そんな実体験から、遠野は実際にある位置よりも北に立地するものと思い込んだようだ。
地図や文献資料で念押したら、遠野の位置は、早池峰山の南であった。
遠野市内の小友地区は、江戸時代における伊達・南部両藩の藩境であったと書いてあるではないか。明らかに岩手県では南に立地することになる。
書き出しから脱線したが、いずれにしても遠野は,日本民俗学の聖地である。
遠野市街を流れる猿ケ石川は、この地の昔話に登場する北上川の支流である。
JR釜石線花巻市釜石市)は、遠野を通る地方交通線だが。宮沢賢治が書いた「銀河鉄道の夜」のモデルとなった鉄道とされる。何かとメルヘンチックな話題の多い北国ではある。
この地に伝わる昔話の多くは、「ドントハレ」で締め括られるが、それがまた個性に富んでおり、印象的である。
さて、民俗学だが。柳田国男の造語であると考えたい。
慎重かつ思慮深い柳田は、民族学文化人類学など。より適切な用語の存在を十分知りながら。あえてこれ等を避けて、「俗」の文字を使ったのではないだろうか?
日本語の源流は、無文字で。中国から漢字を借用したが、表意文字を使用する以上、不測の事態を回避する配慮がなされたと考えたい。
その事を伺う側面的事情として、民俗学成立の時代背景と柳田の経歴をざっと考えてみたい。
遠野物語は、明治42・1909年遠野の住人である佐々木喜善から聞いた話を翌年文字に起して公刊したが、当時の文学界は妖怪ブームであった。遠野物語は、「後狩詞記」・「石神問答」と並ぶ日本民俗学3大古典の1だが、読みようによっては、妖怪談とされかねない。
妖怪となれば、当地文豪の泉鏡花もまたその一画を形成した作家であり、日露戦争休戦後の混沌とした社会を反映していた事が伺われる。
次に柳田国男<やなぎたくにお 1875〜1962>の経歴だが、東京帝国大学を卒業して農商務省に入ったエリート官吏でありながら。島崎藤村新渡戸稲造と親交のあるマルチタレントであった。
歌曲「椰子の実」は、島崎藤村の作詞だが。その成立となった旅に柳田が同行し、ヒントを与えたことが知られている。柳田自身もまた詩作をする人であった。
因みに、「後狩詞記」(のちのかりことばのき 1910刊行)は、宮崎県東臼杵郡椎葉村で、山村の村長から狩猟の古伝を聴取ったものだ。
ここから導き出せる事実は、交通便利と言い難い明治期に、互いに懸離れた岩手県と宮崎県の山村の双方を、中央官吏が実に精力的に動いていたことになる。
このことから。ほぼ独力で、日本民俗学を立ち上げた巨人柳田の草創期におけるエネルギーのほとばしりを感じたい。
しかし、この2足の草鞋的活躍も、大正8・1919年官を辞して下野することで終止符が打たれた。
最終ポストは、貴族院書記官長の要職であったから、まず順調なキャリアー累進であったろうが。地方出張に大手を振って出かけにくい事情はあったかもしれない。
同時代人で、2足の草鞋を大過なく勤め上げた人物に森鴎外が居る。東大出身の陸軍軍医だが、風当たりも相応にいなして勤め上げたらしいから、これもまた別の巨人であったと言える。
しかし、柳田の退官には、別の時代背景があったと考えられる。
明治41・1908年の大逆罪の施行である。
日露戦争帝政ロシアの崩壊もあり、皇室は社会主義に対して過剰反応する傾向があった。
大逆罪は、ひらたく言えば。要するに皇族の人命保護である。因みに、この刑法関連条項は,戦後間もなく廃止された。
大逆事件・別名幸徳事件<明治43〜44・1910〜11年>は、戦後一般に知られることになるまで、非公開かつ大審院一審のみの裁判として、闇から闇に葬られた。
しかし、高位高官としてこの事件の推移を密かに知った柳田は、潔く危険を承知であえて下野したのかもしれない。
何故なら。彼の農政官吏としての最初の仕事は、協同組合であった。
この協同組合は、柄谷行人によれば。
ロバート・オーウェンが推進し,J・Sミルが賛意を示すなど社会主義に重なる思想であったらしい<岩波書店刊行の図書=2017-01号53頁>。
しかも、柳田は協同組合を単に日本に紹介しただけでなく、実現を望む立場であったらしい。
今日は,終始本論に入らずじまいであったが、そろそろ筆を措こう。
巨人柳田は、深謀遠慮かつ出処進退も弁えた立派な巨人であった。と考えたい