いかり肩ホネ五郎の病床ネボケ話No.5

乏才無芸のホネ五郎が古希を過ぎてから、障碍者の認定を受け、想定外の余生を生きる境遇に陥ってしまった。
当初は、軽く受止めていた。野次馬的観察の対象に自分がなってしまった。その程度の軽みであった。しかし、半年も過ぎて。それなりに狭い世捨て人の日常にも、差別まがいの視線があると感じ始めている。
常時酸素供給を受けることは、生活の必要ではある。しかし在宅時には、惚けた精神状態のせいか?時に鼻環=酸素吸入カニュウラが外れる。ままそのことを失念している。
パートナーから指摘されて、始めて気がつく。だいたいそのような時は、放心状態であり・無念無想のネボケ界にあって、霧の中を彷徨っているらしい。
指摘されてから、やおら鼻環を探す。呆然としている間に、いつの間にか酸素供給が断たれて。いっそう脳の休眠度は深くなっていたのであろう。
酸素吸入が快復してやや暫く経つも、過ぎた時間の事や頭の中に浮かんだことなどは憶い出せない。
それもまた「余生」を生き、「世捨て」の人生にこそ相応しい障碍であるようだ。
酸素の処方も、主治医の診断に基づく指図で、すべてが動いている。従って、月に1度は診察を受ける。診察では、時にいろいろの検査を求められることがある。そして、検査には目的がある。ホネ五郎の場合は、迷わず延命措置の箇所に○を付ける。
その検査費用だが、言わば最先端の機器を使用するから、結構に高いらしい。
ここで『・・・らしい』と書くのは、いかにも無責任で。トランパーと同類だ。しかし、年齢こそトランパーと同じ70歳だが、自分と異質の者を排除するような反知性の言論を公やけに垂れ流す気力が筆者にはない。むしろ避けるべきであると考え、知性と教養を信奉する側に立ち続けたいと憶う。米国憲政史上最低の大統領と就任前から揶揄する声もあるようだが、大衆愚行政治の極みのような人物が権力の座に座る。そんなことは、長い歴史の中では希にあると言えよう。古代ローマではネロ皇帝の名が浮かぶ。米国憲政200年を経過して、過度に機関権力1人に集まる権限を集団の中で削ぎ落せるか?憲政システムの実効性と保障力を試されているとも言える。
いささか脱線した、戻ろう
鼻環=酸素吸入カニュウラは、当然のごとく顔の真ん中に居座る。
その姿を見てどう受止めるか?それは相手=見る側の勝手である。宗教的迫害を受けている惨めな者とみる人もいるであろう。言わば、仏罰を被った者と忌避する態度が隠せない人もいるようだ。
それは北陸なる土地柄と関係するかもしれない?
新幹線もつい最近開通したばかりだが、木ノ芽峠<前代地名=旧北陸道/現・福井県敦賀市から北に越えると北陸圏に入る。難所、特に積雪期が危機的>と親不知子不知<約5km続く海岸道路/現・新潟県糸魚川市。ほぼ海中を行く感がある=旧北陸道最大の険路>に挟まれた地理地形が産み出したであろう閉鎖性もあり、古い観念が支配的な土地柄だ。歴史的に仏教信仰なかでも浄土教信仰の盛んな土地柄である。障碍者をそのように遇することが、すなわち差別に直結する懸念あると考えない人もまた多い。
五体満足でない者、それは悪霊に取憑かれたからだとする見方がキリスト教にあるかもしれない?筆者は,宗教知識が乏しいので明確にし難いが・・・・。
山上の垂訓は、新約聖書の中でも有名な下りらしいが。続くマタイ伝9章35説前後に、やたら病体・身体不自由者を救済する場面があり。快復するのは、神の子が悪霊を追い払ったからだとする記載がある。
とすれば。古希を過ぎて鼻環をする境遇に立ち至ったのは、何らかの悪業の所為であろうか?
さて鼻環=酸素吸入カニュウラは、酸素供給の一方の末端である。他方の端に何があるか?その応えは、2つある。
在宅時は、据置き型の酸素発生機である。固定機で,就寝時も休まず動いて大気中の酸素を集め・濃度を高めて送り出している。動力は、家庭用電力である。
外出時は、医療用の酸素ボンベを携行している。これは、工場で圧縮した高濃度の酸素を耐圧容器に封入したものだが。筆者が常用しているタイプは、全体で約5kgの重さがある。
いずれも厚生労働省が管理する医療用酸素の供給システムに則った貸与品である。貸与スタイルは,所有スタイルより低コストなのかどうか?よく判らない。
特に役所が絡むと必要以上にギコチナクなるようで、運用当事者である当人はいたく不便をかこつことが多い。
退院の直後は、酸素必要量も多かったから。外出時は大型ボンベを車輪付の架台に載せて、引きずった。その頃は体力も筋肉の力も弱かったから、間もなく背骨付近に歪みらしいものが生じた。いつも右手で引っ張っていたからであろうが、左の腰のすぐ上にあるホネが突出し始めた。
日常の動作では、格別の支障もないが。寝る時には、苦痛を感じた。
時に眠れない夜は,闇の中であれこれ考えた。
犬の背中にボンベを括り付けて歩こうか?けだし名案であったがしかし、生涯ペットも家畜も一切飼ったことがない。よってボツ
次に発明狂よろしく想像した。ボンベ搭載台車を自走式にして、一定の距離を保って吾がアトを追従して来るものが欲しいと憶った。この場合の一定の距離とは、酸素パイプの長さ1m程度をいう。
ボンベ台車を牽きづる人生は、体躯の歪みを深化させる苦労もさることながら。片手しか使えない不自由さをもたらした。片手つかいの人生は、これまた悲惨に近いものがあった。
そこで、現実的な妥協策に転じた。酸素ボンベ宅配業者と交渉して、より軽く小さいタイプのボンベを使うことにした。
ハンドリング面の負担は緩和したが、ガス欠状態が多発して。予備酸素を携行し・ボンベ上端に取付けるコントローラーの付替えに忙殺された。これがまた面倒であった。
酸素容量とボンベ重量との微妙な兼ね合いを探ることに取りかかった。まあ、大袈裟に言えば,足掛け3ヵ月を要した。V2.0のボンベを手持ちの登山リュックに収めて,担いで歩くことに落ち着いた。リュック込みで重さは、約5kg。傍から見たら、漫画のヒーロー「鉄人28号」のボンベを背負った姿だ。両手が空いて,不自由さが解消した。
体重50kg前半台の老人が、約1割の重さが付加された重荷を背負って、外出するスタイルがほぼ定着した。
過ぎた年末に沖縄で結婚式があり、招かれた。
過ぎた年は、訃報ばかり3件も相次いだので、喜んで出席を決めた。
我が身自身が一時期三途の川の手前で引き返したような状態だった。人生70年も生きると先に逝くか・アトに逝くか?これもまた不思議なことに個人抗争に似ていると憶う。
障碍認定後に海を越える旅行は、このとき始めて体験した。
これまで、鉄道を使い・マイカーを使い、数カ所を泊り歩く旅もやってみた。それなりの手間は已むを得ないものがあった。主治医より旅行同意書を受取り、医療用酸素給配業者に提示。その後は旅行プランに従い、さしたる事なく快適な陸上を行く旅ができた。
航空機で海越えした。まず医師の診断書が必要であった。主治医は診断書を踏まえた透視検査などを経て、診断書をくれた。その診断書を往復の航空便名を決めて航空便運航会社にファクスした。酸素給配業者にもその旨通知した。
数日後、航空便運航会社から乗機を受諾する旨の連絡電話があった。
ここまででも相当面倒だが、往路は関西空港であった。
e−チケットではあったが、予め余裕をもって空港に着き、あえてカウンターに申し出た。ボーディングパスを交付されたが、セキュリティーチェックでもたついた。
当方は詳細を知らされる立場でないが、筆者が畿内に持込む酸素ボトルの形式名称・寸法・容量・重量・ボトル番号・容器再検査期限・本数など、その詳細を酸素給配業者から航空便運航会社経由でセキュリティーチェック機関に通告されるシステムであるらしかった。結果的に20 〜30分待たされた。
沖縄渡航は、筆者にとって始めての体験だった。時節柄1泊とし,結婚式のみで還って来た。
那覇空港と宿泊先のリゾートホテルの間は、レンタカーを利用した。何となく海外旅行の雲行きらしいと憶った。案の定、ホテルの部屋に酸素発生機が待っていたが、携帯用酸素は届いてなかった。我が身は1つだが、供給業者は2つに分れているのである。
ホテルのカウンターにその旨を告げた。返事は要領を得なかった。酸素供給を必要とするような障碍者は、そもそもリゾートと無縁であるかもしれないなあと想った。
当方の肚はとうに決っている。携帯用酸素が切れたら、固定式供給装置の前で終日過ごすのみである。幸いその日の朝に宿泊ホテルで封切りし,機内に持込んだボンベの残量は十分あったので、そのまま挙式・披露宴に出席し続けることができた。
結婚式の日程が終って、部屋に戻ったら機内持込用と臨機応変の字体で書かれた酸素ボンベが2本置かれてあった。当日は、酸素配給会社の営業休日であったから、ホテルサイドの担当者は相当に苦労したに違いなかった。
臨機応変に手配したが故に、員数合わせのように揃えた酸素ボンベは,当座に間に合ったので、翌日曜日の半日ドライブは可能となった。しかし、航空便運航会社に対する訂正報は、酸素配給会社から確実に行われるとのメモがあったので、とりあえず安心した。
にもかかわらず、那覇空港には更に十分な余裕時間を持って臨んだ。件の訂正報は届いているとの確認を得たが、応接の係員は入れ替わり3名も出てきた。同じ質問の繰返しもあった。障碍者はひたすら堪えた。同行したパートナーは、土産物ショップの1つくらい覗きたいであろう。カウンターに張付いてから30分ほど経過した時点で、機内で会おうと約して解放した。
ある意味滑稽なのは3人目に登場した係員である。年齢的に50歳台の女史だが、機内で酸素を吸いたいか?との、ご下問である。返答役のパートナーも居ないので、独りで凌ぐべき危険な時間帯である。あえて、口で答えず表情をもって応えたつもり。だが成果があったかどうかは未だに判らない。とにかくe−チケットの持ち味は失われた。
そもそも十分な時間的ゆとりを持ってカウンターに寄ったことが失敗であったかもしれない
自宅に帰って、憶い出すのは。モントレのホソカワ君には一切説明しなかったが、障碍者の気持をくんでよくやってもらった。何時の日かまた訪ねたい
他方、航空会社の対応は未だに腑に落ちない。更生計画が未だ進行中なのであろうか?人手過剰かもしれない