北上川夜窓抄 その28<実方と歌枕d> 作:左馬遼 

歌枕とは、筆者流の解釈では、地名の一群集のことであって、列島に居住した数多くの人々に愛された地名である。
世界遺産が定着した今日の状況を踏まえて述べると。「歌枕」は、歌人のみが独占する地名でもない。多くの列島居住民が広く共有し、名所・旧跡と呼ばれるべき地名である。
上古の時代、観光旅行も含めて、旅すること=自らの生活の本拠を離れて他所に赴くこと=自体が本来あり得なかった。そのことは、歌を専ら量産した貴族層ですら、同じことであった。
それぞれの家職を以て宮中に常在することが、彼等貴族の仕事であって。かつて行ったこともない・将来もまた見る事もない歌枕の地名を織込んで、自在に歌を作ることが、彼等の余技であり日常であった。
もちろん地名であるから、その成立と由来は相当に古い。歌の作法が確立した時代や貴族層の固定した時代つまり古代の社会が成立した頃よりも遥かに古いと考えるべきである。
さすれば、歌枕を含む地名の成立ちは、かつて列島のほぼ全域に分散居住し、後来の弥生人に逐われるがごとく。列島の周縁部に移動した縄文人に由来すると考えるべきである。
列島の地名を・まずその成立ちを知ろうとすれば、縄文人たちの地域名表示に関する意識にアプローチする必要がある。
その先学として、山田秀三(1899〜1992)を挙げておく。
彼は、中央官吏→実業家→アイヌ研究・地名研究家と、多彩な人生路線を歩んだ。しかも、その実を挙げるために東京から北海道へ移住した。
研究スタイルにおいて柳田国男と重なるものがあり、この人もまた巨人である。
アイヌ研究と縄文?ここではこれ以上踏込まない。
彼が北に向かったのは、想像するに現住アイヌを先住縄文人の末裔と考えたからであろう。しかも、その北の地には、アイヌ語研究の先行集積があった。
列島の周縁部に移動した縄文人とは、唯一アイヌばかりではない。逆サイドの南方もまた周縁部である。その地に移動した隼人もしくは南西諸島民の諸言語と、列島地名との関係を考察するべきであるが、果して、どのような手がかりがあるか?
その設問に対して、筆者が語るべき材料は未だない。
まだ続く。
列島地名の成立ちを古代韓国語をもって、理解しようと試みた人たちがいる。
吉田東伍・坂口安吾などの名前を挙げておこう。
ただ、こっちの方は、弥生系であるとして。後来の者は一般に地名の名付親として、先住の縄文系に比べれば相対的に劣位したであろう。
中でも特筆すべきは、いわゆる半島と列島との交流において、最も早い時期に列島を漂白した集団が金属生産技術者であった、と考えられることだ。
金属とくに鉄の探査・採鉱・冶金・精錬に従事する者たちのライフスタイルは、金属資源埋蔵量の規模と消長に制約される短期定住の暮らしであり。農耕民とは重ならない点が多々あった。
むしろ、固定的定住スタイルの農耕民からすれば、自然破壊を意に解しない迷惑者的存在であったとも言えよう。
列島内部での鉄消費拡大は律令期以降だが。それ以前の早い時期は、原料供給を一方的に行う専ら生産地域であったようだ。
東アジア有数規模の古代期の鉄の集散中心は、韓半島南部の金海市付近に存在した。
ユウラシア大陸と日本列島に挟まれた日本海を「東・地中海」と考えた場合、金海の対岸に当る列島サイドの着地点=つまり金海の出先拠点は、出雲地方と考えられる。
出雲神話などの根底にある『神無月』説話や聖徳太子信奉にある技術界譚話に、そしてまた失われつつある山岳修験道の故事伝承に。平地人が窺い知ることのできない古い史実の反映がありそうである。
さて、実方朝臣が時の天皇から「歌枕を見て参れ」と言われて、陸奥に赴いたのは。先述したとおり、単なる左遷とする見解もあるが。地方に中期間滞在して経済拠点を構築し以て家産を形成せよ、との深い配慮であったとする見方まで。さまざまある。
しかし、不遇なる実方は、名取の笠島で不慮の死を遂げた。
何も果さず、若くしての撤退である。
もし彼が求めたものが、経済的利益であったとすれば、暗殺されたとの見解も成立つ。
当時の東国は、防人を出すほどの文化的・技術的かつ軍事的先進集団つまり新来渡来民の集住地であり。その奥に位置する陸奥の国もまた、経済財を豊富に産出した。
陸奥の国の産出品でよく知られる代表的な物資を例示すると、まず黄金・鉄器・舞草刀<もぐさ・とう>・鷹の羽・鷹の幼鳥などが知られる。
黄金は、砂金=地金として、搬出される例も多い。
後世になるが、まず奈良時代天平産金が有名だ。聖武天皇大仏開眼に大きく貢献したのが本邦地内から金が産出したことであった。この時は、大伴家持が歌を作るなどして、国を挙げての祝賀ムードを受け。産金地とされる地元には、黄金山神社<複数の地にある>などが設けられたらしい。
筆者は、何度か現地を訪ねたが。いずれも金の産出地とは認め難いとのイメージを持った。
更に後世になると、金売り吉次なる名の流通集団が登場する。陸奥の地から遠く都まで黄金を含む上掲の特産物を搬送した商団の固有名詞化したものとも考えられる。この種の自立・防衛つき商団は、何時の時代にも活躍したことであろう。
実方の時代は、天平産金と金売り吉次の時代間に挟まれている。民間流通機構が構築される以前の経済財移送であるから、詳細を把握することはほぼ困難だが。或いは、陸奥国守の権力をもって官物輸送の中に私物を潜ませるなどの財テクがあったかもしれない。
その場合、黄金などよりも実体経済により密接な財物として、鉄製品を想定しておきたい。
鉄となるとすぐに武器をイメージしやすいが、マクロ・ミクロ双方において。確固たる需要があり、確実に捌けたのは農業用品=鋤・鍬・鎌などまたはその原料である。
実方の時代はまた、荘園制度が活発に動き出し。中央権力を握る藤原氏と神社仏閣の手によって、班田給与の公有田地が私有化される一方。原野を開発して農耕地に取込む動きもまた活発な時代であった。
鉄の生産は、明治以降になって高炉による生産が普及すると。古代製鉄の実態を理解することは、一層困難になったと考えるべきだが。野踏鞴<のだたら>を含めて、おそらく数段階の冶金工程を重ねたものであろう。
各工程段階の中でも、最も採鉱地に近い場所で行われる踏鞴製鉄は、本来のターゲットである鉄素材を含む鉱石よりも、燃焼用材の必要量が数倍も大量かつ入手困難であった。求められる火力温度と現地での入手の容易さから、松の木が一般的であった。
松が豊富に遠望できる風景を憶わせる「白砂青松」なる辞がある。
その松原のある海岸には、内陸奥地から注ぎいる川がある。その川の流れの中に砂鉄が混じる。
かつて、見渡す限り存在した樹木群が、製鉄のために皆伐一掃されるが。その失われた樹木が松原として快復する頃、砂鉄の自然堆積もまた丁度一巡し。踏鞴1回分に相当する採取量に達していたなどの好都合な出来事もあったかもしれない。
さて、歌枕だが。松の木に因む景勝地であることが多いようだ。
次いで関連する景観が、海浜や河川であろうか?そんなスタッフ配列順であろうか
天皇が実方に求めたのは、陸奥の鉄との接触であり・その入手経路を構築せよとするものであったかもしれない。陸奥の地のほぼ中央=平泉の地の北上川を越えた対岸には、砂鉄川もある。
平泉は地政学的に特異な土地であったようだ。
もちろん奥羽州藤原氏を支えた産金地とも重なる地学的特異ゾーンでもある。この地は、先般NHKで放映したブラタモリ平泉で、その地質学的特異性を紹介していた。
そろそろ、筆を措こう
上述した天平産金地は、陸奥国小田郡<おだ>の地とされる。小田郡は、古代地名である。中世小田保のうちとされて郡名は消えて、遠田郡になった。
”うた・まくら”と「おた」なる発声との関連性を主張するユニークな説があると言う。
地名「おた」は、アイヌ語由来である。「おた」は砂または砂金を意味すると言う=高橋良典氏の提唱(歴史読本・昭和61年8月号)
筆者は、このことを「みちのく伝承」(相原精次著・1891/12・彩流社刊)から知った。227頁
幸いに筆者は、アイヌ語の書物を少し所有していたので、検証または補強を狙った。
しかし、「地名アイヌ語小辞典」(知里真志保著・2000/5・北海道出版企画センター刊)には、該当見出しが見つからなかった。