イカリ肩ホネ五郎の病床ネボケ話No.3

前稿で予告したので、今日は、表題のサワリについて、その続編をおっ広げる。
イカリ肩ホネ五郎』とは?タイトルとしてかなり奇妙きてれつだ。
筆者はこう思った。
古希を過ぎた老爺の入院後日談なんぞ、誰が読むものか?と。
まあ通常の読者から回避されるは必定?
そこで、せめてタイトルだけでも面白おかしくと画策・・・・
筆者は落語好き、それがどうした?落語を聞いて、おかしいと笑う奴が面白い人物かどうか?
それはたしかに判らん。
ただ、落語の中に時々道具屋の店番。首から上が滑稽なタイプの人物が登場する。
その人物描写と少なからず重なりそう。でも自信はない?
おつむが目出たい奴は、笑いのタネになりやすい。
しかし、昨今は報道禁止表現もあるらしい、そう目出たく落着しそうにない。とても頭が弱い。
さて、表題の前半部=「イカリ肩」の第2の義を述べる。それが今日のテーマである。
B病院での胸水除去に関する処置は、結局うまくいったか・どうだったか?の見極めがつかないまま。
体調不良を訴えて、C病院に転院した。
そこでも、再びの胸水除去処置を受けた。
C病院の方は、県下有数の大病院。ベッド数も相当大きいらしい。
と言っても。当方は早く処置を済ませて、桜狩りにシンクロしたいと思っていただけ。
それ以外のことは、入院の面倒くささも全く上の空。全くもって、首から上はたしかに目出たい。
桜狩り旅行日程に残り3週間の余裕をもっての再入院だから、十分回復を果して後。1年ぶりの再開を果せるものと、別荘生活気分での悠々たる患者暮らしだった。
とは言え、その時既に酸素供給を受けていたのだから、真剣に立向かうべき課題を既に抱えて、傍目からみて深刻な事態だった筈だが、????  やはり目出たい奴らしい
いま思い出しても、我が事に、真摯に立向かった記憶はない。
かと言って。鉄人28号のように背中に爆弾とまがう酸素ボンベを担いで、動き回る日常を、只今現在も深く考えてはいない。
あえて、誰かから質問されたものとの仮定に立って。回答するとしたら、
病気病体も吾が人生のうちだ。
と答えるであろう。
無病は理想。しかし、吾が人生は理想と対極にある。
何ひとつとして、望みどおりに展開したことはない。
それは今後も同様であろう。
嵐や雨の日は、首を物陰に隠してやり過ごす。1日1日を過ごして行くのみである。
快晴の毎日を展開させる術は、当面見当たりそうにない。
とまあ、のんびりと。避寒のつもりで、エアコンだけはきいている個室シェルターに数日を過ごした。
胸水除去の処置が終り、順調に回復を俟つ数日の間に。突然 原因不明の発熱があった。
数日ベッドに留まることを申し渡された。
原因やら・対処やら、よく判らないまま数日が経過した。
タタミ1枚ほどの広さしかないベッドだが。その後も引続き数週間に亘って、離れることを禁じられた。
心身と書くくらいだから、首から上と首から下とは、別なのだろうか?
現代の臨床医学は、診療科目がざっと30以上もあって、数えきれない。
科目名称を聴いただけで、果して何を扱う診療科なのか?全く当りがつかない。
診断するドクターも、病名を宣告される患者も、ともに人間だから。
どちらもあまり突っ込まない。さりげなく大人の演技で、鷹揚に振舞う。
タテ割り診療の弊害で、ひとつだけのカラダを1日のうちに、あっちの科が済んだら、次はこっちの科とばかり、ウロウロ・とぼとぼと駆けずり回っている老人を多数見かける。
病院内パラリンピッククロスカントリーみたいな難行苦行を、外来待合の特設観戦席で見させられている。
分業に基づく専業化の失敗と言えないこともない構図だが、それを拡大・進展させることが、現代社会のパラダイムである以上、抗い難い。
閑話休題。吾が病院生活に戻ろう
今でもその頃のことは、記憶が覚束ない。
僅か数日か?数週間?のベッド緊縛暮らしで、先祖還りが一気に進み、足腰の筋肉が退化してしまっていた。
ベッドに留まれとのナース命令は、転倒事故を回避するための予防措置。
がしかし。気がついたら、ベッドから這い出るだけの、筋力すら失われていた。
高層病棟の窓から眼下に見える、紅灯のネオン街に隠れてシケコム。
そんな気力も体力も、既に過去のものとなり。雲散霧消する斎場の煙のような影の薄い存在に化していた。
あの桜狩りの旅は、既に始まっていた。どのようにしても、動き回る自由は持合わせなかった。
友人たちが旅先を引揚げる丁度その頃、主治医から近親者との面会を済ませよとの勧告が、妻に告げられた。
筆者がその事を妻から聴かされたのは、明らかに快方に向かった後=退院直前のことであった・・・
目出たいほうの当人は、何も知らずのんべんだらり。ひたすら入院暮らしを続けていた。
関東圏に住む娘が、家族全員打ち揃って、見舞いに来た。
その娘がその翌週に再びほぼ同じ人数構成で、やって来た。
妙だなあとは思ったが、それこそが先祖還りの途上にある患者の気づき。それほど症状が重いと思っていなかったから、ぬけぬけと生還したとも言えよう。
やがて、ベッドを離れる事が許された。
と言っても、やることはただ1つ。
催して来たら、ベッドから起ち上がって、個室の水洗トイレに行き、便座に座って用を足す。
それだけのことだが。
筋力がほぼ赤ん坊なみ?だから、酸素コードの配線を処理しながら、全身を喘がせて行って還る。
ただそれだけの動作。とっても大仕事であった。
水洗トイレの快適さを有難いと思った。
呼吸困難に喘ぎつつ、かつての健康時代。失われた健やかさの如何に有難いことかを想った。
何時の日か再起してやろうと心に誓った。
トイレが済んで、立上がり。向きを変えて、手洗いする。
その時、眼の前の死神像と出会う。鏡と向合ったのは、何週間ぶりだろうか?
よく見たら、眼が生きていない死神像は、自分であった。
気を取り直して、まだ生きている。当面死なんぞ、と密かに念じた。
鎖骨が浮き出ていた。
鎖骨のカタチが、錨に見えた。
イカリがかろうじて肩を支えていた。
吾が肩の錨は、現代の鋼製船のアンカーではない。北前船の錨だ。
北前船の錨は、ホネが細い。もちろん鉄製。ホネを上から見たら十文字型に張出している。
現代船のアンカーは、立体型ではない。平板で薄っぺらで、上から見ても十字ではなく板状に見える。
その違いは、人力で扱う北前船と、モーターで巻き上げる現代船との差である。
江戸期北前船のそれは、多く瀬戸内は尾道産のイカリであったらしい