北上川夜窓抄 その27<実方と歌枕b> 作:左馬遼 

前稿で予告してから、続稿の約束を果さないまま、もう間もなく2ヵ月が過ぎようとしている。
ほぼ1千年も前の時・空間について、知らない事・迷う事・勘違いがあって。調べ事や記憶の修正に、思わぬ時間がかかってしまった。
その間、計画的に図書館通いをしたが、やや不規則に到来する台風銀座の夏が終り、いつの間にか世の風は肌寒さを増してしまっていた。
さて、藤原実方<さねかた・生年不詳〜998 平安中期の歌人三十六歌仙>である。
陸奥国守として赴任した現・福島〜宮城〜岩手〜青森の各県は、広大な地域であり。ヤマト朝廷の長年に亘る同化政策やら屯田定住などの戦略的領地取込策も、奏効しないまま、長い時間が経過していた。
今日登場させるのは、清少納言である。
平安中期頃の言わば国風文化が花開き、定着した頃のエース級の才媛である。
この当時の男女が、史料文献に登場するのは、ほぼ貴族階級に属する人物に限定される。
貴族は、宮廷に常勤する立場つまり国家権力機構の主要構成員であるから、当然に全員が日直・宿直の交替勤務に従事した。賜暇を得て旅するのは、せいぜい最遠地熊野詣でくらいのものであった。
この時代の贈答歌には、歌枕の地として。陸奥の風物が多々登場する。
しかし、上記事情から。彼等がその詠み込んだ現地の風景を眼にする事は、殆ど全くありえず。すべて想念の中にある地名であり・地形地理なのである。
筆者も仙台在住の頃、百人一首に登場する「沖の石」や「末の松山」を探し訪ね当てた事があるが。今思うと、おそらく、いずれも後世の洒落人が、捏造した故地=”歌枕”記念物なのであろう。
戦後風俗で言えば、『別れの一本杉』資産がある。
需要に応ずるべく供給された名勝地だ。
春日八郎の出身地=会津盆地内に比定的に創作された、有名歌謡曲の描く世界である。
さて、ここに清少納言が登場する背景は、知る人ぞ知る常識だ。筆者が述べる新しい知見は、特にないが。行掛かりから、型どおり披露する。
実方と納言は、ともに有名な平安中期の三十六歌仙であり。互いに歌の名手として。恋愛関係にあった。
史料文献にも、その根拠らしいものが登場する。
実方の歌の詞書として
   ・・・  元輔が婿になりてあしたに  ・・・・ <拾遺和歌集より>
なる文言がそれ。
清原元輔は、知ってのとおり清少納言の実父である。
婿の意味は、この時代の戸籍がどうであったか?男女の関係がどうであったか?は、さておき
女婿則ち結婚と堅苦しく採ることなく、恋愛関係にあったくらいにしておきたい。
清原氏について、少し触れておく。
前稿で、伊吹山のある下野国<しもつけのクニ>を清原氏の縁故地で、任国である陸奥に向かう実方は計画的に訪れたと書いたが。
このような思わせぶりのぼんやりした表現では、さも下野国清原氏を本所とする荘園があったような誤解を招きかねないので。本稿でいささか補正的に付言しておく。
古代の律令制のもと、地方行政区分により、列島全域は7つの「道」に区分され。更にその下に「国」が置かれ、中央貴族が国守として派遣された<任期を以て更迭される>。
下野国<しもつけのクニ=現・栃木県>も陸奥国<みちのくのクニ>も、ともに東山道に属しており。下野は陸奥の入口に当る地域でもあった。
しかし、清原氏の活動舞台であった出羽国<でわのクニ>に至る通過経路もまた東山道であったから、下野国は奥羽両国=オール古代東北の玄関口であった。
要するに、計画的ではなく、必然的に東北地方に旅する者はそこを通過しなければならなかった。
しかも、北関東『毛の国(けのクニ)』(現・群馬&栃木の両県)や『総の国(ふさのクニ)』(現・千葉県)は、韓半島からの渡来民が集団居住する点において共通の風土を臭わせる土地柄でもあった。
当時から北関東は、渡来民の先進技術に裏打ちされた諸産業&農業先進地域であり。その豊かさから、この地は平安初期に親王が国守に就いて「太守」任国とも呼ばれた。
重ねて下野国が、古代史において重要な位置づけであったことを物語るものに、東国戒壇が当地の国府辺に置かれた事実がある。
戒壇とは、仏教において正式な僧侶を任命するための最終行程の儀式を行う場所だが。
官立の戒壇は、東大寺平城京(中央)・観世音寺太宰府(鎮西の要・大陸外交の窓口)・下野薬師寺(東国における仏教中心としての位置づけか?)の3ヵ所に置かれただけだから、その重みは伺えよう。古代律令制下では、国の許可を得た者だけが、正式な出家僧とされた。
因みに、いささか脱線だが。筆者はその昔、上記3戒壇いずれをも実見したことがある。加えて、鑑真和上の開創になる唐招提寺にある戒壇も見ている。筆者は宗教家でもないし、戒壇の今日的意味は失われかけており、いずれも露座として、露天に苔むしているだけで格別の感慨はない。
ただ、下野の薬師寺は、当時の仏教界の最高地位である法王に登り詰めた後、失脚した道鏡<どうきょう・?〜772>が左遷されて赴任した寺である。
更なる脱線だが、東山道は地方行政区分であるとともに、古代官道でもあった。
最遠の地の国庁国衙と宮都とを最短時間で連絡するために、原則として2点間の直線ルートを結ぶように設置された。
東山道の配置は、不破関畿内の東端=現。関ヶ原付近>〜濃尾3大河川を渡河〜木曾〜信濃国<現・長野県>〜碓氷峠上野国<こうずけのクニ=現・群馬県>〜下野国那須高原を越えて〜白河関<現・東北地方の最南端>となっていた。
要約的に記述すると後世の中山道と奥州往還とほぼ重なる列島規模の連絡通路であった。
現代の車社会からは、理解困難なルート設定だが。古代7官道には駅馬制が施行され、30里ごとに(当時の距離基準。約16.6km)乗馬用ウマ20〜5匹が常置されていた。
現代と異なり、民間ニーズの輸送事業が存在しなかったので、行政ニーズの情報のみを迅速に伝達する道路施設であった。
この列島の交通史には、固有の不思議がある。
それは他に見られる車の活用が、隔地間で皆無であったことである。
これは、上代から近世までほぼ通史的に成立する事実だが、隔地間圏域は狭いものの、山岳急峻・河川暴威の困難が、車の利用と陸路間物流を阻害したのであろう。
古代官道の遺蹟は、全国各地で発掘されている。発掘例の占める割合が過小で、全体スケールを伺いにくい。
よって全体像を俯瞰した物言いは、難しい。
意想外の場所に存在し・想定外に道幅が広く。いかにも大陸中国統一王朝の制度をそのまま模倣した経緯が伺える。
その意味からも現代の主要幹線道路と古代官道との間に、歴史的関係性が乏しい。
これはあくまでも個人的な憶測・邪推だが、古代官道は列島規模どころか、7道ブロック・レベルにおいても、遂に開通しなかったのではないだろうか?
次なる中世の時代には、その完成していたであろう部分的官道すら見放され放棄された感がある。
駅馬制のある幹線官道とは別に、伝馬制が敷かれた古代の地域間連絡道が、列島中に設けられた。
これは、ひとつの纏まりある平野または分国行政区域内の相互連絡、つまり国衙郡衙または郡衙相互間を結ぶ域内連絡通路として機能したようである。こっちの方は、経済的なリーズナブルな道路ネットワークを備えていたようだ。
さて、下野のまとめだが
先に述べた官立3戒壇の1が、下野国国府の地に置かれ。しかも同じ地域内に実方が詠んだ「吹上の伊吹山」があったことは、平安中期=西暦1000年頃に宮廷女官として仕え、浮き名を馳せた清少納言にとって、そこが国内の最東端であると思えたからであろう。
下野の更なる東や北にも国土は続いていて、多賀城や秋田城は既に存在したが。その地は未だ軍政区画の中の民情不安な土地であり、民政移行の時期が望まれる状況。つまり宮廷女官が認める安住の地ではなかったようだ。
白河の関の南にこそ仏僧得度に重要な施設が設置され、完成から相応の時間は経過していても、更にその奥に進める状況には無かったと考えるべきであったようだ。
今日は、ここまでとします。
実方と納言の関係について、本論に入らず仕舞いでした。
続きたる本論は、明日語ります