イカリ肩ホネ五郎の病床ネボケ話No.2

先月の初稿に引続き、第2稿である。
初稿リリースからはや1ヵ月が経過した。
執筆の時間が思ったほど採れない。古希を過ぎ・世捨て老爺にも浮き世の義理は負ぶさってくるものらしい・・・とほほ
憂き世と書いた方が、まだ核心に迫る感がする。
さて、今日は表題について、ホンのさわり程度のものを述べてみたい。
と言っても、まず前半の「イカリ肩」である。
まずもって。
何が因となって入院したか?だが、
それはほぼ好例となりつつある”桜狩りの旅”に、さも健常者であるように振舞おうと考えたからだ。
大学時代の友人=数人とタイミングのみシンクロさせる顔合わせの観桜旅行である。
北海道に住むAは、生涯写真を撮り続けてきて、遂に道内では飽き足らず。この数年本州=彼等は内地と呼ぶ、しかし彼らが住む地を「外地」と認めるわけではないらしい=に、遠征して来ている。
当方は、そのタイミングを察知して、その前後にAの廻りをウロチョロする。
ただそれだけの事である。
シンクロとは、そう言う意味を踏まえた言い回しである。
写真屋は太陽が出ている間、撮影対象を探そうと鵜の目鷹の目であろうから、周囲をウロチョロされたり・下手に話しかけられたりすると、迷惑至極な事であろう。
それでなくとも、サクラの季節には、名物の桜に世の阿呆が群がる。邪魔者だらけ溢れている
最近は、地球上の全ての地からクマなく、この狭いニッポンに人が押寄せる。
別にサクラの下に義経の霊が出没するわけも無かろう。だがしかし、サクラの頃であればサムライと会えると期待する。それは外国人の勝手だ。
現代はヒトがヒトを呼び・人集めをする。
そんな時代だから、Aと同じ旅館に泊まった例は少ない。
オン・シーズンは、宿泊料がオフの3倍くらいに跳ね上がる。
それがまた、筆者のような雑念妄言の多い老爺にとっては、腹立たしいことである。
ことほどサヨウに、些事に拘泥する時に、吾が両肩は首の付根よりも高い位置にある。
と、パートナーが発見して久しいと言う。
さすれば、イカリ肩。第1の義は、漢字で表記すると、「怒り」に伴って出現する身体的特徴のひとつと言えよう。
”桜狩りの旅”に話を戻そう
数年経つうちに、1年に1度顔合わせをするメンバーが、6〜7人に増えてしまった。
因みに年齢が年齢だから、概ねパートナー同行となり、頭数が増える。
格別共通の話題も無く、各自が粗末なメシを喰いながらワイワイ喋くって終る。
ビール党あり・ワイン派あり。国粋型澄み酒族もいるから、てんでん勝手に飲んでいる。
昨年は、吉野に行った。
その時既に前立腺ガンを患って数年経過し、抗ガン剤の継続投入が原因と言われる胸水のために、筆者だけは歩行が著しく制限されていた。
さて、あれから1年たって再会して、病状が変らず行動緩慢であるのは、友人の感ずる事如何なものだろうか?と、筆者なりに世間体?を慮って、やっと吾が重い?腰を挙げた。
胸水排出の処置を受けるべく行きつけのB病院で、右肺のほうのみ処置してもらった。
B病院に当初1週間程度入院する予定であった。しかし、3日で退院した。
経過が思わしくないからだが、今日はここまでとしたい
余談だ。
処置だが。胸水は両肺ともに占拠していたが、右体側に孔を開けて片肺のみの胸壁膜間にある体液が、除去された。
人体に孔を開ける行為だが、何故か?手術とは呼ばないらしい。因みにB病院に外科医は居ない。
内科医が実施するから「処置」であって。手術ではないのか?と、突っ込みたいところだが。
筆者は、臨床医学にそもそも興味も無いし。能力の及ぶ範囲でないから、ここまでとする。
点滴や注射も処置のうちに属する医療行為であるらしい。
イカリ肩の第2の義は、明日語ることにしよう
B病院の処置の結果は、まったく意図した方向とは逆の方へ進んでしまい。”桜狩りの旅”への参加は、あえなく断念、生死を賭けて、同じ市内のC病院に入院することへ
吾が人生は、例によって例のごとく、意図する方向とは無関係にダッチロールするのであった