北上川夜窓抄 その26<実方と歌枕a> 作:左馬遼 

その昔、もう40年も前の事だが。勤務先の都合で、仙台に転勤して、4〜5年の間滞在した。
仕事の事で特に思い出す事はないが、週末暮らしは実りある日々を過ごせた。
陸奥の土地のうちに住みマイカーを駆使して、歌枕の地や芭蕉行脚の跡地を実証しつつ、あちこちを訪ね歩いた。
学生時代から万葉集を学び、和歌の世界に興味があった。
俳諧連歌は、宗祇や芭蕉の参画を得て、明治期には俳句となり。今や世界の「ハイク」にまで、進化したが。韻文史なるジャンルが設定されなくとも、俳句は和歌から派生した文学である。
よって、本稿は思い出話から始まる。
名取市の山の中に、藤原実方朝臣<ふじわらのさねかた・?〜998 平安中期の歌人三十六歌仙>の墓がある。
墓と言っても、現代のような銘文が彫られた石柱があるでなし。その近くに建つ標識と解説から、それと判るのである。
かなり昔の記憶だから、それだけの事だが。かつて、西行法師が訪れ・その故事を踏まえて。訪ね来た芭蕉は、折からの豪雨と体調不良に祟られて。ついに訪れ損ねた場所である。
藤原実方のことを殊更語るのも妙だが、まあ、決まり事だから。型どおり、我流の拙い解釈を披露することとしよう。
   かくとだに  えやはいぶきの  さしもぐさ 
      さしもしらじな  もゆるおもいを
これは後拾遺集にあるが、小倉山百人一首=No.51に選ばれている。
小倉山とは、京都嵯峨にある山。そこに藤原定家<ふじわらのさだいえ 1162〜1241>の別荘があった。よって、定家の好みで、彼の生きた時代から過去に向けて、その存在が知られた名高い歌人99人の歌の中から、名作と考える歌を一首づつ選んだものだ。
No.97に自作の歌があるが、格別に格調が高い作とも思えない。
彼の業績は、まず長生きした事である。平安末期から鎌倉初期の間に当る約56年の日記=明月記を残した。権中納言と言う役職は、最晩年のものだが。院政時代とは言え、天皇政権の中核を成す閣内要員の一人として席を占めた人物の記録であるから、貴重である。
和歌は、定家の家業である。しかも、名人と言われた父・俊成の実子に生まれ、更に同時代にこれまた歌の名人と言われた第82代天皇を勤めた後鳥羽院との競い合いがあった。このような環境が彼の才能を育てたと考えたい。『新古今集』『新勅撰集』の撰者。
さて、上掲の歌だが。技巧に富んでいるだけで、さして良い歌とも思えない。歌の意の中心は、燃える想いだから。縁語で”もぐさ”が登場する。
当時既に医療効果のある薬草としてお灸の材料だが。その産地として伊吹(いぶき)の名が登場する。
伊吹山と言えば、琵琶湖沿岸から遠望される有名な山だが。識者が言うには、ここに登場するのは、下野の伊吹山だと言う。
その意味する処を探り、納得に達する事は少し難しいが。検討の材料と検証の過程を示しておこう。
実方<?〜999>は、藤原北家(小一条流)の出自だが、同時代に権力を独占した道長<みちなが 966〜1028 藤原北家(御堂流)の登場により。片隅の中流貴族グループに押しやられた。
特に道長から忌避された花山天皇の取巻であったから、尚更冷遇されたとも言われる。
俗に実方中将とも呼ばれるが、貴族として武官を歴任し、官位も4位クラスで夭折し、いわゆる殿上貴族に至らなかった。
これも俗説だが、一条天皇から「歌枕の地を見て参れ」と、陸奥の守に任じられたのは、事実上の左遷であるとする見解がある。背景に。藤原行成との対立・論争から、その冠り物を落した事を天皇から咎められたとするものである。
冠位十二階制定以来、貴族にとって装束は生命線だ。暴力沙汰でそれを落す行為はかなり重罪に当る。
左遷で済んで、譴責処分を免れたのは。希な幸せと言うべきである。
任地である最果ての遠地=陸奥に至る途上に、伊吹山が聳える下野国がある。
下野の地は、清原氏なる名門貴族の縁故地で。その縁から、経由地として計画的に、下野国を通過したと思われる。
続きの話は、明日に語ります