もがみ川感走録第49  もちの話2

前稿で,山形県は新庄で造られる餅=久持良餅(クジラ・もち)の話題を採上げた。
その中に。江戸時代ではあるが、新庄に鯨の肉塊が届いたと。あった。
新庄は,今でこそ最上川に臨む内陸の中核都市だが、江戸時代は、戸沢藩6万8千石(知行地は最上郡全域と村山のうち大石田・河北など)の城下町。藩内に銀山・銅山などが当時稼働していて、願譜代<ねがいふだい>に転ずるなど,経済力は確かな一時代があったようだ。
そのクジラが何処からどのようにもたらされたか?それが気になっていて。今日の話題はかなり大きく脱線しそうである。
まず県内の海から供給されたものと考えよう。
筆者は、最上川河口から。やや北上するが、ほど近い海浜に,生まれ育った境遇だから。江戸時代まで知見を広げる自信はないものの。日本海側に捕鯨があった事例を聞いたことがない。
山形・秋田を問わず日本海域一般において、おそらく捕鯨は過去・現代とも不振なのではないだろうか?
さすれば、新庄に届いた鯨肉は、何処から?どのルートで?
結論として不明と言わざるを得ない。
しかし、いささか覚束ないが、周囲を見回しておこう。
新庄から東に、県境を超えると宮城県がある。距離としては隣県ながら比較的近い。そこまで、行くと。金華山・女川・石巻など、古くから捕鯨でよく知られた太平洋のクジラ・メッカ。
盛業のホエール・ワールドがある。
牡鹿半島がつくり出す,陸と海の複雑な地形?地形は陸域に住む人間の視点だが。海域サイドから見れば、その反転図形が海岸線だから。鯨がひょいと出来心で迷い込みそうな地理的条件であるかもしれない?
沖合に孤立する金華山の島は、クジラの見張にも・クジラ漁師の滞船にも好都合らしい。
その点日本海側の東北辺は、全般的に海岸線地形が単調過ぎる。鯨が遊びこころを起こして,フラッと迷い込みそうな地理状況が乏しい。
ただ忘れてならないのは、日本海を北上するクロシオの存在である。黒潮と言えば、日本列島の東側を三陸沖の漁場付近まで達する大潮流だが。
黒潮の分流であるクロシオが,列島の西に当る日本海を流れている。
そのクロシオが最上川j河口周辺を過ぎた位置付近で、にわかに陸地に接近する。この周辺から北の山形・秋田方面にかけて、鯨取(いさなとり)=捕鯨が行われた可能性を全く否定することはできない。
地理的条件は、どうあれ。海域を通過するクジラが少なく・海域漁民の定着的職業化が難しい場所で行われる・偶発性の高いクジラ漁を受動的捕鯨漁と言うらしいが、
日本海側の東北辺では、鯨とは縁が乏しく。運悪く漁師に見つかり、生命を落すクジラは、10年に1度どころか・100年に1度あるか・ないかの頻度であろう。
要するにクジラ漁とは無縁の土地柄、それが最上川前の海であるようだ。
過去の事績を知るには、鯨神社・鯨寺(この時代,寺社はほぼ同体。神仏分離は明治初年〜現代の事象)・鯨祭などを調べることだが。佐渡(=新潟県)椎泊にある願誓寺に鯨の供養塔があると言う。明治21年に漂着した鯨を供養したものらしい。
ここからは、筆者の勝手なカングリだが。この時石屋は、千載一遇のチャンスとばかり。確実にビジネスにしたことが判る。では,誰が石屋の費用を支弁したか?おそらく鯨肉の配分に預かり・思わぬ恩恵を被った地域の有力者達であろう。
そこには、再び鯨に来てもらいたいとの願望が多いに含まれていそうだ。この地域へ、ひょっこり来たばかりに、生命を落してしまったクジラも可哀想だが。
この時に居合わせて,クジラと慣れぬ格闘をして、これまた一生の傷を負ったか?時に不幸にして、あの世に旅立ってしまった若者が居たかもしれない。ここで,メルヴィルの名著『白鯨』をネタばらしすることは控えるが、金儲け産業とは,生命と引換に存在するものであるらしい。
そして、このようなタイミングに登場するのが、餅である。
海上で日頃見慣れぬ巨体のクジラと格闘する・突発的事態に遭遇する最前線の漁師は,まさに日頃も命懸けだが。受動的捕鯨漁と言いつつ、クジラとの対決は、突然に襲って来る、新たにして・更なる危険との対決であった。
このような時に、配られるのが。「力餅」である。
そして、その「力餅」は、間違いなく神の加護と直結した存在でもあった。
地域の有力者の手によって、その地の神社仏閣に供える手筈がなされていた。このように、一見1つのことに重層的に意味が込められているのが、日本固有の文化なのではないだろうか?
そのように、多面的に機能する社会構造の中で、突発的に始まる受動的捕鯨漁であったろうが。事情もよく判らないまま、その場に居合わせた漁師の若者は。運命に身を委ねるしかなかった。
餅の配分に組み入れられることに、そのような社会背景まで読み取るべきではないかもしれないが。食いつなぐことは,命懸けなことであった時代が長く続いたのも事実である。
閑話休題
筆者は、かつて1度、紀伊半島太地町和歌山県東牟婁郡。くじらの博物館がある>を訪ねたことがある。言わずもがな、鯨の街である。クジラ漁の本場に位置する。
海の中に,街全体が取込まれているような土地柄だと感じた。岬の突端を鯨が、通り過ぎるのを見逃さず。ことごとく捕り尽くす。そのために、常駐する組織化された鯨組が待機している。その産業化まで突き進んだ時代が見えるような土地が、太地町であった。
産業として常態化すると、鯨取(いさなとり)と呼ぶ情感は,とうに失われてしまう。
では、何と呼ぶべきか?
単なる筆者の好みだが、鯨突(くじらつき)と呼びたい。
鯨突だと、現代の捕鯨砲ともすぐに繋がる気がする。太平洋に面したホエールワールドでは、江戸時代において既に,鯨漁が地域の中核を成す主要産業であった。
さて、行掛かり上。クジラについても、やんわり触れておく
現生種の鯨は、おそらく地球上最大の生き物であり。海に住んで久しいが、何故か?魚類ではない。
既存分類では、現生種をハクジラヒゲクジラとに2大別する。しかし,2003年の新種発見と蓄積された古生物学の知見とを踏まえて,分類の見直しと種別系統の位置替えを予告する識者がいる。
ハクジラ類が60種超・ヒゲクジラ類14種超・ニタリクジラ複数種あるも、各種別の個体機能や補食様式が異なるため。行動パターンや回遊環境はおのずから異なる。
日本列島周辺に出没するのは、このうち約10種ほどだが。北海道も含めて,全国各地の古代地層に残る貝塚から出土する考古学成果から、列島住民の古典的食材であった事実が判明する。
ごく一般的だが、クジラは南方低緯度の温暖海域(赤道を超えない北半球)で、出産・育児を行なう。
やがて、子クジラの成長に応じて,北方海域に移動すると言う。一般に北の海の方が、栄養豊富であり。摂食・肥育に適した環境であるとされる。
この南から北に向けて,年中行事のように移動する途中で、日本列島の周囲を回遊する。
魚類が,栄養の豊富な北の海を目ざす海域回遊行動は、本来川に住む肴であるサケやマスにも該当する。
筆者は、実はクジラを観察した体験が無い。と言いつつ、シャチ・イルカ・スナメリも鯨の類いと聞くと、きっと水族館で出会っている。
複数の個体が,実に勢いよく。あのような狭いプールの中を泳ぎ回る姿に驚ろく。
彼等は、高周波エコーロケーションなる特殊な能力を備えているらしい。
これは,反響定位とも言い、コウモリの群舞飛行を保証する機能としても知られている。
ハクジラ類の頭部にあるメロンが,その受信装置であるとされる。
この機能の活用だろうか?クジラには、超長距離通信が可能とする見解がある。水中傍受と言う耳慣れない環境だが、1000km離れて意思疎通可能と言うから驚かされる。
いささか脱線ついでだが、陸上最大の動物とされるゾウも,独自の低周波交信応力を備えると聞く。その距離20kmだそうだが、人間には備わらない優れた機能と言うしか無い
鯨から採れる材料についても、ひと通りおさらいしておこう。
まず肉・肝油などは、ごく普通に食用だが。竜涎香なる香料は、マッコウクジラの腸内生成物だとか?
ヒゲクジラの鯨ひげは、硬さ・軽さ・柔軟性において,格別な工芸材料として一時期珍重された。西欧では,女性のコルセットが流行した時代があって、他に代えがたい存在だったらしい。
北陸では,大野弁吉のカラクリ人形なる展示が知られるが。そのゼンマイなどに使用されたらしい。そのような用途分野は,現代ではプラスチックに置換わっているが、その出現前は、他に替え難い重宝な材料だったと考えられる。
最後に残るのは、鯨油だが。日本列島では、燃焼に伴う悪臭が嫌われたようだ。
菜種油と競合し、あまり大事に扱われなかったのではないだろうか?
北前船の運んだニシンは、農業用の肥料として。内地産のイワシを駆逐した時季があった。その頃,最も多く引取られたのが、木綿畑と菜種畠であったように記憶する。
江戸時代も幕末に近づくほど、成長著しい大都市が出現して、消費経済が拡大の一途をたどったことが知られるが。夜間照明のニーズも拡大し、黄色い春の花であるナタネの作付け拡大は,ほぼ全国に及んだようである。
幕末と言えば、無理に鎖国の扉を。大砲を構えつつ無理矢理こじ開けたのが、クロブネ来寇のペリーの暴挙だ。
何故に,彼が暴挙を承知で押通したかと言えば、太平洋捕鯨における寄港地の不足なる=日本列島の太平洋上における、他を以て替え難い地理的立地をもって、説明する以外になかろう。
捕鯨なる仕事が、始まったのは。10〜11世紀大西洋であるとされる。その捕鯨が、急激に拡大しピークを迎えたのが、18世紀である。
その捕鯨が、太平洋にまで及んだのは、ごく短い期間であったような気がする。
捕鯨の本場は、大西洋であった。その大西洋に住むクジラを捕り尽くしてしまい、太平洋に向かって已むなく乗出したのだ。
捕鯨の根拠地を含めて海事拠点港は、一貫して北米東海岸のボストン・セイラムなどであった。
これ等USA開国の起点となった港町があるマサチュウセッツ州は,地球儀をよく見て頂くと判るが、大西洋を挟んでヨーロッパの対岸に当る北アメリカ北部にある。
大西洋を渡海した時、最短で至る上陸地点であり。史上有名なタイタニックの想定航路沿いにあたる地域でもある。
では,何故急激に鯨油を求めて、捕鯨産業が急激に沸騰したか?だが。
なんと、背景は産業革命にある。
産業革命は,農業から工業への人類史的大変革であったが。18世紀イギリスに起り・社会科学の全分野に変改を招いた。
アダムスミスが書いた「諸国民の富」は、いささかロマンチックな未来論過ぎるが、実相は、大航海時代から始まって・現代のグローバリズムに至る白人キリスト者横暴の海賊主義に立つ、粗っぽい思想が根底にあって、許し難く・是正すべきシステムだが・・・・誤解を恐れずに要約すれば,産業革命を興したエネルギーもまた、海賊活動と同じ発想から生じたグローバリズム経済思想の一貫である。
自由放任運動の要求などと、耳に易しい言葉を使っているが。金儲けのために,他者を這いつくばせようとする考えは、人間的共感に基づくフェアトレードの理想に程遠い。
さて、いささか脱線したが。1760年頃ロンドン・ウエールズマンチェスターリバプールなどほぼ全英規模で沸騰した産業革命は,瞬く間に近隣諸国に拡大した。
技術革新・動力機械の導入・輸送のための鉄道建設など大量生産システムへの移行は、大工場の建設・工場労働者の通勤・機械化による統合生産など大資本相互間の競争激化に,間もなく波及した。
資本家が考える打開策は,いつの時代もほぼワンパターンだ。建物や機械の減価償却を早めるために、長時間労働と深夜労働を採用した。
そう。夜間労働にまず必要なものは、照明である。照明用の安い油を求めて、捕鯨業者は世界の海へ押出した。
海国ながら海禁により,国を閉ざしていた日本に、水・薪・炭等の物資補給と海難対策の避難港解放を求めて、USA海軍ペリー提督を派遣させたのは、捕鯨業者たちの圧力であった。
しかし、日本が開国に舵を切った頃,USAの捕鯨産業は、急激に萎んだ。
産業革命による照明ニーズは,その後も一向に衰えを見せることは無かったから。その背景を究明することは、必ずしも容易でなさそうだが。1つの可能性を示しておこう。
電球の登場である。
エジソンによる炭素電球の発明は、1879年である。
当初は、電球の中を真空状態にして、木綿を加工して造ったフィラメントを発光させていたが。
京都石清水八幡宮の境内にあるマダケからフィラメントを造って成功したのが、翌1880年とされる。
明王エジソンが、開発する新製品は、商品練度が高いので、便利であった。スイッチをオン・オフするだけで済むハンドリングの容易さは、他の照明装置に備わらない特性であった。
ご承知のように,電気は照明だけではない。電気事業者の存在が、前提であり。発電機の開発・設置・電気供給なる技術と社会とが融合したシステムの整備も必要だから、そう簡単に起ち上がるとも言えないが。電気照明のごく短期間における世界規模での普及を見ると、太平洋の捕鯨産業が急激に萎んだ背景は、何となく納得できる。
そう思うのは,筆者の身勝手だろうか?