もがみ川感走録第48  もちの話

前稿を書いたのが、2015.12.19だから。ちょうど4ヵ月前だ
この間、前半2ヵ月は国民の義務たる納税申告の作業に費やしたが、科目別集計なる単純作業に,度々計算違いが多発してしまった。既に病気が進行しており、それでなくとも、精神集中が持続しにくい老人性の精神は,老衰モードの極みにあったようだ。
3月に,ほぼ年中行事化している友人との春の旅行が予定されていたので。2月半ばに、胸水(きょうすい)を除く内科的処置を受けた。
胸腔(きょうこう)とは、肺を囲む2つの胸膜(きょうまく)の間にある、隙間を言うらしい。
そこに溜った体液を体外に排出するために,病院に行った。
胸腔に医師がドレインなる孔を開ける行為で、素人目には手術そのものだが。医学慣行では、内科的処置であって,外科的手術とは。別ものらしい・・・
しかし、2月半ばに行った最初の内科的処置によっても、肺機能の復活どころか、酸素吸入の日常化など。生活遂行条件は、なお悪化した。
そこで,病院を替えて,本格的に胸水退治に立向かうことにして。3月1日に市内有力病院に本格入院した。
入院中の3月半ば原因不明の38度台の高熱を発した日が3日ほどあった。次いで,2〜3日ほどベッドから起ち上がることをしなかった。
それだけで、立派な本格的な廃用人間になってしまい。おそらく終生酸素ボンベを繋いで生き続ける境遇になってしまった。
間もなくリハビリテーションの本格指導を受けることにして,筋力の回復をまって退院するのも一案かと考えた。
いつの間にか、緩やかなる・穏やかなる動きに徹したいわゆる老人らしい老人になってしまっていた。
リハビリの効果が出るのは、もう少し将来のことだから、動けるかどうかは,未定の事実ではある・・・
さて、いささか言い訳じみた前口上は、おくとしよう

吾が,生まれ育った東北は、”もち”が,ふんだんに溢れる環境だった。それは実感だが、読者の方もまた同様であれば、あまり力説することも無いとも言える。
秋田県は,内陸=旧・中仙町(現・大仙市か?)に「餅の館」なる施設がある。
識者が言うには、餅の展示館を作ると言う発想からして,珍しい存在だと言う。周辺地域で造られる約300種類以上の餅が実物展示されている。
現実の姿として、たしかにそこまでやるか?
秋田人の行動力は,奇想天外のようだ。理解困難なものがある。
だがしかし、対抗馬は確実に現れるから。この世は面白い。
面白すぎて、こっちも力が抜けるばかりだ。
岩手県は、北上川の流域。
平泉・一関・花泉が、「もちの里」・「もち文化の地」として,名乗りを挙げている。
ここでは、街の活性化の中核に"餅づくり”をどーんと据えて行こうと,腹を括ったのだと言う。
何とも頼もしい限りだ。
秋田の展示種類300も驚ろくが、岩手の餅の話の方も,何種類あるのか?ピンもキリもない話であるから。もう途中で投げ出すことにしよう。
この奥に向かいつつある東北の地域では、ほぼ毎日の生活の中に,餅がふんだんとあって。餅を切らす日常の方が,少ないのではないだろうか?
さて、今日の餅の話題の上がりに進もう。
餅は、モチ米から作る。常食のウルチ米とは、少し異なる種類のコメ原料が必要である。
モチ米は、糯米と書き。「もちごめ」と、読む。細かい事を言えば、農業・作物学の用語だ。
食物の餅は、作物の糯米を使えわないと食べられない。
その当たり前の事を、殊更明記するには。実は理由がある。
モチとウルチの対語関係は、判っているようで。
モチとウルチの本質となると。筆者は覚束ない。結構、奥行が深いらしいので、この際踏込んでおきたい。
しかも、モチとウルチの問題は。日本列島への稲作伝来のルーツ、民族固有の基層に横たわる食文化・民俗学としての理解、そして、世界規模の視野での糯米生産域の展開など。想定外の広がりを知ることに行き当たる 。
とまあ、次稿以下の予告は、さておき。
餅のごく近い存在に、赤飯がある。これも、食材は、糯米であるが。
ペッタン・ペッタンする製造工程があれば餅で・無いのが赤飯だ。
両者の関係はそんな存在である。
餅も赤飯も、日本列島全域に展開しているので。民俗学的には、その呼び名を羅列するだけでも大変だ。引いてしまいかねない、よって、ここでは割愛する。
赤飯の造り方をも含め、その扱いようが、現代風に固定したのは、江戸時代とされる。
しかし、そのありようは、各地各様であることは言うまでもない。
凶事に「赤飯」なる事例が、東北・山形 にあると言う。
聞きようによっては、そんな。と、唖然とされる方も居よう。
白蒸(しらむし) が、凶事・不祝儀用であるとして、画然と区別されている地域もある。
白蒸は、単に糯米を蒸しただけの例、蒸したのちに黒豆を煮て加えるなどのヴァリエーション=例がある。
その点において、赤小豆を混ぜた赤飯を、通夜の席に供する庄内平野の例は、珍しいかも知れない。
葬儀などでも、赤飯を経木に包んで、土産に持たせる。法事ではモリコボシなどと言うが。銘々盆に赤飯を盛って、参会者に供すると聞く。
最後に、これも山形・新庄の話題である。
極めて、ローカルな体裁の餅=久持良餅の事を述べる
久持良餅は、くじらもちと読む。筆者は、亡き父が愛好家であったので、少年期から故郷で、度々お目にかかって来た。不思議な名前だと、長い事思って来た。
この度、記事にするにあたり。入院中で、現地取材が困難な事情を告げて。電話取材に応じてもらった。
電話で分かる事は、確かに限界があった。
内陸に立地する新庄で、鯨が捕まる筈もないから、何でクジラなのか?この最大の疑問は、久持良餅の製造過程を知る者だけが、納得できる光景らしい。
その昔=江戸時代らしいが、庄内臨海部からクジラ肉の切り身が届いた。その時その黒と白の連続した肉塊を望見して、クジラと命名したと言う。
いかにも、メーカーオンリーの内輪的話題で、久持良餅を買って食べるユーザーには、トント腑に落ちない。
そのトーンが、電話に伝わったのか?直ちに、第2説の披露に話題は進んだ。
原料の屑米を反映してか?クズマイもしくはクズコメが訛り・転じて、やがてクジラ餅になったとする説があるのだと言う。
筆者は、こっちの説を聞いて、ある意味安堵した。
最上川の流域で、名が知れた大都市の部類に入らない新庄にメーカーが集中する意味が、判ったような気がした。屑米を入手する環境は、生産する農地に近い方が都合よく・しかも生産・加工された後の餅の流通を考えると。純粋農村部ではまた都合が悪いのであろう。
ローカル・セントラルがベスト・ポジションなのであろうか?
現代では、久持良餅は菓子だが。我が少年期は、菓子が貧家に置いてある時代相ではない。
多義かつ多目的に、曖昧な存在である餅だが。
父は子らのために買って来たが、普通の餅と異なり、売り物であるから、甘みは強かった。
だから、菓子といえば菓子だが。屑米の餅でこさえたモチであれば、実用的な食品のうちでもある。
大都市の酒田でなく・最上郡の新庄で作られているという地域感覚のもたらす堅実さとローカルさが、古い昔の互いが緊張しつつ生きていた軍国の名残りの余燼を偲ばせる。そんな過去の田舎作法を思い出してしまった。
その点、現代の新庄は、新幹線のターミナル駅として、繁栄著しい。
久持良餅は、一層洗練された小型のパッケージとなり。美しく包装されて、菓子以外の何物でもない姿に転じている。