もがみ川感走録第33  べに花の9

もがみ川は、最上川である。
尾花沢に清風と名乗る男がいた。
時は、元禄2・1689年。年齢は39歳。
職業と言えば、嶋田屋八右衛門(屋号)家の部屋住者(跡継ぎ息子。この3年後に家業の金融業を継ぎ・襲名して鈴木道祐となる)。嶋田屋は苗字帯刀を許された有力町人の家であったらしい。
因みに、清風は俳号。当時の村山郡尾花沢村は、幕府直轄領であった。
来訪者である松尾芭蕉(この時46歳)を厚遇したことで,清風は文芸史の中の著名人となった。
そして同時に、後の山形県(この時は出羽国)に観光産業を招き寄せる功労者となった。
手がかりとする文献資料は、「おくのほそみち」と「曾良随行日記」の2つである。
「おくのほそみち」は、言わずと知れた日本の紀行文芸の最高峰と位置づけられる俳文紀行の名著である。
その中で尾花沢は格別の扱いをされており、とても目立つ。
何故?目立つ存在かと言えば、筆者のみの見方かもしれないので。少し断りをして、脇道に逸れたい。
今更芭蕉にインタビュウして確認することは、叶わないが。「おくのほそみち」は、彼の終活日誌であったと考えてほぼ間違いないであろう。
終活日誌のクライマックス・ストーリーは、松島・平泉の訪問であり。尿前の関は、最後の章として読める。
尿前<しとまえ>は、陸奥国の出口であった。
陸奥を出たら、故郷の伊賀に還るばかりであったから。そこで終活日誌は閉鎖されるはずであった。
以上のことは、「おくのほそみち」と題されていることから、容易に偲ばれる。
「おくのほそみち」の音声から『みちのく』<みちのおく=陸奥。短縮音の形>の音声を引き算すれば、「ほそ」の2音だけが残るが。終活者の通る道は、おそらく”かなり細い”のであろう。
まだある。
陸奥(太平洋側。律令上では東山道に属す) → 出羽国日本海側。同前・北陸道のうち)に達するには、列島脊梁山脈を山越えしなければならない。
人生50年の時代にその9割を過ごした芭蕉は、徒歩しか無い旅がもうしんどかったのであろう。
国境の中山峠を越え出羽がわの堺田に入った後。今度は険路の山刀伐峠越えを敢行して直路尾花沢を目ざした。
山賊出没の噂がある山刀伐峠(なたぎり・とうげ)ルート選択は、メインコースから外れていた。山賊による生命の危険を感じたと書いているが、あながち文芸趣向と決めつけたくない。
ここで言うメインコースとは、陸奥から出羽へと列島脊梁山脈を越えて京都に繋がる物流主軸を言う。
北上川江合川→鳴子川→中山峠→小国川→最上川と繋がる<舟運コース。支流源流部=中山峠付近のみは荷駄越えを組合せる>水の道は、奥州藤原氏の時代から存在した。金売吉次が何度も往復したであろう日本海海運・琵琶湖を経由して京都に迫る水と陸の最短コースであった。
芭蕉山刀伐峠を選んだのは、ある種の賭けであったかもしれない。
尿前の関では、通行手形に不備があったのであろうか?
現代と異なり、移動の自由も居住の自由も無かった江戸封建時代。その悲哀をしっかり味わわされたのであった。
江戸の芭蕉俳諧宗匠であり。経済面的に恵まれてはいたが・身分的制約や空間規制などを最も強く受ける立ち位置、言わば封建社会のはみ出し者でしかなかった。
俳諧連句興行は、身分差を越えてあらゆる階層の人・諸処からの旅行者が。趣味を共通する者として、封建秩序を逸脱して過ごす「ひととき」。情報交換・知識交歓・交友の場であった。
封建制度の厳しさを忘れがちな江戸の日常であったが。尿前の関越えは、現実の厳しさを一挙に思い起こさせた。
苦労して、やっとこさ出羽がわに越えることができた。その安堵を確認したのが、堺田の宿であったが。その後、賭けに差出したのは、自らの生命であった。
しかし、強運の彼は、無事に険路を越えた。賭けに勝ち、幸運にも、清風は在宅した。
清風の厚遇に喜んで、尾花沢には格別長期間<旧暦5月17〜27日>滞在した。
清風の好意に応えて、気を取り直し。「おくのほそみち」パート2を書き続けることにした。
パート2の書き出しが、尾花沢の段となる。
なんとここで脇道に逸れた断わりを終らせる。
日本海側の旅程は、既に観たいものは見終わって。ひたすら急がれる、故郷への帰り道でしかない。当初の著述プラン「おくのほそみち」では、割愛され。ただ通り過ぎる筈だった。
しかし、出羽国の入口で清風に出逢い、清風の暖かい人情に接したことで。「おくのほそみち」は、ボリュウムを大幅に伸ばし・日本文芸史上の最高峰へと一挙に上り詰めることとなった。
芭蕉は、尾花沢で清風から立石寺のことを聞いた。それまで、そのような名刹の存在について全く無知であった。急遽、立石寺にも立寄ることとした。
立石寺と言うよりも、山寺の方が呼びやすい。山寺から先の行程についても、清風はアドヴァイスしたことであろう。
山寺の先は、最上川舟下り・出羽三山参詣へと当時のお決まりコースを通って、酒田に落着くことになっていた。
最上川の存在とその河口である酒田を接点に日本海側を経由して出羽と京・大阪へ繋がる・太くて力強い紅花ロードの存在もまた、清風からはじめて聞かされた。
その時、芭蕉は、新しい歌枕を求める旅に乗出し。出羽・越路・北陸路の旅を俳文紀行として書く肚を決めたらしい。
旅の終りから5年後、この追加ルートの俳文紀行は、結果的に「おくのほそみち」の後半に集録されたが。別巻として独立編集される余地は、おおいにあると言いたい。その場合の標題は、「でわのはなみち」となろうか?
そうなれば、もう終活日誌の後半部ではない。
山刀伐峠越えの賭けで勝って、新生復活日誌に踏出している。
最上川 → 日本海を繋ぐ水の道は、故郷の伊賀にごく近い京・大阪と直結していた。
「水の道」は、「はなみち」であり。『べにばなロード』であった。
出羽と関西とは、想っているほど遠くなかった。
最上川の流域に住む人達は、自らへりくだって。俳諧連句の場で、田舎の風俗を読む傾向があったが。現実の姿は、江戸・京都・大阪の3都に劣らないほど洗練されていた。
芭蕉の提唱する新風=俳諧改革に対しても前向きであった。
すべてのことは、出羽で最初に訪れた清風からはじまった。彼とはかつてから顔なじみであった。江戸深川の歌仙の場に、清風は顔を出していた。
尾花沢の金融業者の跡取り息子は、商売上紅花消費地である3都を訪ねることが多く、江戸も活動範囲の内であった。
芭蕉が抱く清風に対する感謝の気持は、「おくのほそみち」尾花沢の段に明らかだ。
ここに芭蕉の3句・曾良の1句、都合4句が纏めて掲げてある。
そもそも「おくのほそみち」の文調は、この段からガラリと変る。後半部、否 別の新巻としたい所以である。
解説書は4句纏めて、清風に対する挨拶の句であるとする。
挨拶句であるから、清風の商売に因んで紅花が登場する。
    眉掃きを  俤にして  紅粉の花
しかし、この句が実際につくられたのは、尾花沢を去って山寺に向かう途上であったとされる。道すがら、紅花が咲いているのを観察してつくった叙景の句だったらしい。
「おくのほそみち」本文編集の過程で、時間と場所を入替えたことになる。
ただ、芭蕉は伊賀の出身であり。藤堂藩治世無足人制下の在地土豪層・松尾家の子だから、紅花栽培に従事して育ったことが考えられる。
伊賀の地は、京都にも近く・上古・古代からの紅花栽培先進地であることは言うまでもない。
さて、この頃・尾花沢で紅花が栽培されてなかったことを明らかにしたのが、民俗学者竹内淳子である。著書「紅花」<ものと人間の文化史シリーズNo.121法政出版>の中で読んだが。
気候・耕地などの諸条件が引き合わず。養蚕の繁忙期と紅花の農繁期とが、バッティングすることもあって。尾花沢の主産業は、養蚕であったと書いている。
桑の栽培に適した土地は、青苧栽培も可能であろう。
尾花沢の養蚕は、挨拶句の中の曾良の句にある。
    蚕飼ひする  人は古代の  姿かな
最後に、眉掃きと言えば、女性の化粧道具。広島県は熊野産のブラシが好評らしい。
末摘花の異称を持つ紅花の外観は、アザミの花に似ており、ブラシの毛先を上にして立てておいているように見える。