北上川夜窓抄 その8  作:左馬遼 

北上川の顔に当る町は、間違いなく石巻だが。
その顔に光を当てる役割を果したのは、伊達政宗であった。
戦国から江戸の初めにかけて、日本の歴史でも一・二を争うほどの秩序の大転換が行われた。
後世の我々は、過去をあたかも既に敷いてあるレールを走る電車の如く考えがちだ。
しかし、そのような名付けて事後観望型の既定史観こそ、最も慎むべきである。
この時期、東北を代表する2大英雄は、最上義光伊達政宗である。と筆者は考える。
前者は、最上川を開鑿して。自らの城下である山形まで、舟運の足を延ばした。
後者は、北上川の河口を付替し・迫川・江合川を合流させて、近代舟運の基礎を拓いた。
この2人の先駆的な大型土木工事が、実際に評価される事になったのは。その後、江戸時代を通じて長い平和の世が実現したからである。
これを結果論と言う。この2大英雄が、河川改修の事業に着手した時。長く続く平和の時代が到来するとは、誰も予想しなかった。
彼等の事績が、最初に世に認められたのは寛文の頃であった。
かの有名な河村瑞軒が、東廻り・西廻りの航路を整備し。列島周回海運事業を成立たせる環境が整った時<東は寛文11・1671年、西は翌12・1672年>。
最上・北上の東北を代表する2大河川は、内陸奥地から河口にある海港まで運搬すべき物資を届ける河川舟運の整備が、既に完了していた。
この2大英雄は、戦国末期に名を馳せた軍事的成功者・領国経営の明主であったが。平和が到来する時代において、物流がどのように拡大するかを見透す先見の明においても卓越したものがあった。
しかし、彼等は寛文の頃,既に物故していた。
家系が幕末まで続いた伊達家はまだよいが、悲劇なのは最上家である。義光<よしあき>の死後10年を俟たずして改易され・その後大名格を奪われた。
この2人の間で、仮に評価較差があるとすれば、後継家格の盛衰に従うと言うべきであろう。このように歴史の評価は、偶然に左右されるものらしい。
脱線ついで。事績評価もまた、その後生じた偶然によるものだ。
まずは、参勤交代である。
参勤交代の採用こそが、江戸に繁栄をもたらし人口の増加を招いた。それを受けての更なる経済規模の拡大が。相乗効果となって全国各地から関東への迴米を呼び寄せた。
参勤交代の始まりは、寛永12・1635年武家諸法度の改定からだ。
次に、米澤藩上杉家の減封事件である。
米澤移封後の第3代藩主綱勝は、寛文4・1664年無嗣子急死した。普通であれば改易必至だが、鎌倉以来の名家のせいか?運良く免れた。
石高半減の15万石で存続が認められ。陸奥国の伊達・信夫郡にあった藩領は、幕府に収公された。
この時、幕吏は伊達・信夫郡の御城米を直接江戸に送る事を思いついた。その研究を新興商人の河村瑞軒に命じた。この時遅ればせながら始めて阿武隈川舟運が開設された。
その成果を見て、幕府は直ちに東廻り・西廻り両航路の整備を命じた。
もちろん、その背景に幕府公領の存在がある。最上川流域の置賜・後の最上郡などに天領があった。
要するにここで言いたい事は、河村瑞軒の大事業も上杉家減封なる偶然の事件から生じた事実である。
瓢箪の駒みたいに、上述した2つの偶然が重なり。廻り回って2大英雄の評価が、寛文の頃<1661〜72>までに早々と固まる事となった。
とまあ、いやに長い脱線であった。
さて、先に述べた迫川<はさま>・江合川<えあい>だが。宮城県北部の穀倉地帯大崎平野を流れる大河にして。北上川の支流である。
迫川は、古代〜中世石巻湾に直接放流し・近世初めには登米郡内で北上川に合流していた。
江合川の方も、北上川本流や他の支流若干と並行して流れ下り、石巻湾に直接放流していた。
江戸初期の北上川改修は、この複雑な水流を整理統合する河川工事であった。判明分は多く、17世紀初め頃着手され・17世紀半ば過ぎに竣工した。
この大規模水文土木事業は、野谷地<のやち>と呼ばれた湿原を減らし。その結果洪水に苦しむ民衆を減らす事ができた。同時に農耕地を拡大させ・藩産米の収量増加をもたらした。併せて舟運機能の改良に直結するなど、1石3鳥乃至4鳥の効果があった。
この河川改修を大括りして、ここでは伊達政宗の事業と総称した。
いささか正確さを欠くが、葛西・大崎郡へ入封した天正19・1591年<秀吉による奥州再仕置>以後に起工されており。状況・時期からして的を外していないと言えよう。
石巻繁栄の基礎は、北上流域の穀倉形成と舟運改善とのミックス成果だが。江戸期ピーク時における石巻積出による江戸迴米は、年間20〜30万石と全流入量の過半数を超え。相場建米の地位にあった。
東の石巻と西の酒田は、列島海運史における2大中心商港であった。
最後に紙数の余隙をもって述べる。
江戸時代本邦に大洋外航船舶の建造能力は無かったであろうと、直前の稿で根拠の乏しい話題に触れたが。慶長遣欧使節団について、簡略に祖述しておきたい。
北上川石巻湾とを格別の縁で結んだ伊達政宗に因む話題でもあり、
使節団を仕立てたのが政宗であった。
おそらく江戸時代において太平洋横断を果した最後の帆船は、支倉常長一行が乗船した黒船=サン・ファン・パウティスタ号であったに違いない。
この船の解纜は、慶長18・1613年旧暦10月 石巻湾月浦<つきのうら>である。
この船の建造ならびに派遣など一切の費用は、政宗が負担した。大御所家康の許可を得ており、江戸幕府の造船官が立会い。建造期間約5ヵ月を要した。
外洋船建造の経験が無いこと・外洋航海の経験が無いこともあって、イスパニア使節ビスカイノが建造の総責任を負っていたらしい。
問題はここからである。まず、何故そのような立場で、ビスカイノがそこに居たか?である。
太平洋は、イスパニアの海であった。外洋に圏域を設定することが、大航海時代の欧州カソリック界の共通認識であった。
しかし、オランダなど一部プロテスタント世界の民と国は、そのようなローマ法王の見解を軽視または無視していたようだ。
ところで敬虔なカソリック教徒は、我々仏教徒のように嘘も方便とばかりに時々黒白を翻すように2枚舌を使うであろうか?宗教・信仰に疎い筆者は、よく判らない。
以下は想像だが、一神教では天国の門を通る時に審判があるし、神は裁きをするであろう。その点、釈迦は何時・如何なるときも人に対して裁くことをしないであろう。
次は当時の情勢である。家康の存命中、海外交易に対して極めて熱心かつ積極的であった。
イスパニアと国交しており、キリスト教の布教を許さない一事が、交渉上のネックであった。
ビスカイノは、イスパニア国派遣の正使として1611年に来日し。将軍や大御所に謁見を果し、許可を得て列島沿岸を航行測量した。
同年12月、陸奥国気仙郡(現・大船渡市)沖で慶長三陸地震に遭っている。翌12年帰国の途上、列島東方の太平洋上で暴風に遭遇し。破船したため浦賀に戻った。その後、帰国を図り・船舶の入手を画策するも果せず。政宗の野望に便乗することで、結果として帰国を果す事ができた。
次なる問題は、黒船の建造地が何処か?である。2説ある。
石巻市史は、先に述べた解纜の地である月浦とする立場だ。月浦で建造し・そこから出帆したとしている。
対する見解は、雄勝湾呉壺を建造地とするものである。その地で進水の後・月浦に回航し・出帆したとする。呉壺の海岸に石碑があり・雄勝町史に記載があると言う。
さて、先に述べた慶長18・1613年サン・ファン・パウティスタ号は、往路乗船者180人を乗せて出帆し。目的地アカプルコ<北米・メキシコ>に到着した。
乗船者180人のうち140人が日本人であったと言う。ここで、ポイントとして抑えるべきは、40人の属性である。帰国を果すべく・建造指導に尽力し・外洋航海に長けたビスカイノ一行が乗船していた。
よって、この時点で、日本人乗組員に太平洋横断の経験=航海工学の知識を持つものは居なかったし・その結果として外洋航走に耐える船を建造した経験もまた無かった。
しかし、任務を果たした支倉常長一行は、1618年4月アカプルコから太平洋に乗出し、帰路航海に就いた。往路と同じ船を使い、フィリピン・マニラに寄港した後1620年9月帰国を果した。
ここからは、全く想像だが。帰路の航海は、往路の体験を踏まえて。日本人クルーだけで太平洋を越えた可能性が高い。
支倉常長が、本土の土を踏んだ時。甲子園の開催当日に敗退帰校する高校野球団のようであったらしい。
海外交易に野心を持つ大御所家康は、既に物故していた。切支丹禁教の国是は不動であった。
その後1639年幕府は、海禁政策〔対外貿易を幕府が独占し・オランダから海外情報を入手する体制。俗に鎖国とも言う〕に移行した。
慶長遣欧使節団のことは、長く忘れられた。光が当てられるのは、近代になってからだ。
その次に太平洋を渡洋航海した船は、有名な咸臨丸<かんりんまる>である。
万延元・1860年勝海舟福沢諭吉を乗せて、太平洋を往復した。
3本マストを持ち帆の装備もある木造の蒸気船であったから、帆船でなく動力船に含まれる。建造地はオランダ国であった。
航海には、米艦ポーハタン号が同行し。外国人技術アドバイザーと水兵が操船に従事したものとされている。
慶長遣欧使節団が、忘れられたように。太平洋渡航に耐える外洋船建造の体験も外洋渡航の航海工学知識の蓄積も、たちまち忘れ去られた。幕府の大型船建造禁止により、ニーズが消えた事が主な原因である。
<注>この稿を書くにあたり、石巻市生涯学習課の指導を受けました