北上川夜窓抄 その7  作:左馬遼 

北上川の河口と言えば、石巻である。
石巻のランドマークは、日和山公園である。
日和山<ひよりやま>には、何度も立寄っている。
筆者は、1980年頃転勤地の仙台市に拠点があった。海の方を目ざして日帰り出張することが多く、昼休みは多く日和山に登って過ごしたものであった。
市街地のほぼ中心にあって、小高い丘陵の頂上でもあり。眺望が抜群である。
訪問予定先は、概ね眼下の眺望の中に一望され。持込み弁当をパクつきながら、巡回コースの効率化をプロットするもよし。食後の息抜きに生来の趣味である頭上の白雲を飽かず眺めた。
南から海が迫り・足元を背後から北上川が流れてくる。兎に角眺望の良い小山だ。
しかも、その丘陵一帯のうちに、神社も寺院もある。
因みに国土地理院の三角点もあって、標高40mプラスαの高さであったと記憶する。
ここまで書いてくると、絶好の天然ランドマークであることがお判り戴けると想う。しかも、公園でもあるから、至れり尽くせり。
とまあ、ここまでは、足が地に着いている話題。
以下は、いわゆる日和山についての説明となる。よって、足に地がついてない。
既に知識のある人には、釈迦に説法となろう。せいぜい、アラ探しに勤め、ご指導の一言を賜りたいものである。
足に地がついてない世界とは、船乗り稼業のことを言う。
現代は、動力船で動く時代だから。日和山の存在意義は薄れた。殊更、説明調となる感じは致し方ない。
しかし、人類史を観望すると。帆船の時代の方が、動力船の時代を遥かに凌いでいる。つまり、時間シェアにおいて、帆船の時代が圧倒的に長いのである。しかも風力の利用は、未だ過去の技となっていない
帆船時代、石巻港に停泊していた千石船の船頭は、早朝日和山に登って。その日の天候を予測し・風向きを把握し・日毎に出港するか否かを決めた。
多くの船頭は。それを一人で決定した。よって、下山〜乗船までに神仏に祈願することが多かった。
多くの乗組員の人命と積荷の安全を、責任者たる彼一人が担っていたのである。
観天望気とは、気象学の用語であろうが。江戸時代は、ほぼ毎朝、各地の港で。船頭が、日和山の上で気象観測と気象予報を行っていたのである。
ただそれだけのこと。だが、そこに見えにくい背景がある。
その背景とは、厳密に言えば、時代は江戸。日本列島に外洋航行に耐える船が存在しなかったことに由来する。
内航海運専用の船しか存在しなかったため、積荷の揚げ降ろし機能を最優先させた。その結果として、海が荒れることへの備えを欠く船ばかりであった。
そのツケまわしで、海難防止のため、自己防衛に特化した運航方法が定着した。
その運航方法とは、要約して言えば。
○ 常に陸地が見通せる近海付近を航行する・・・この沿岸航法を「地乗り」と言う
○ 早朝に出港して、その夜は次の港に停泊する・・・昼間航海の徹底
その結果、船頭の日和山通いが日課となった。
先に、石巻港から出港する千石船と書いたが。日和山研究の第一人者=南波さんの著書「日和山」より正確に引用しただけのこと。
南波松太郎(なんば。船舶設計技術。1894〜1995)=三菱造船神戸造船所を経て東大教授。日和山に方角石を求めて全国行脚20年超。地図類のコレクションも有名、神戸市立博物館に展示あり
千石船と書けば、一般のイメージはすぐに北前船に跳びがちだが。同じ法政大学から出版された”ものと人間の文化史・シリーズ”の「和船〓・和船〓」によれば、北前船は正しく日本海運用型弁才船<べざいせん>とでも書かないと著者の石井さんに叱られそうだ。
石井謙治(けんじ。造船史・航海史・海運史。1917〜)=著書多数につき省略
脱線ついでに、北前船のことを簡単に疎述する。
その呼び名の由来だが、瀬戸内海方面の海運業者が日本海方面の運行船を差別的に北前船と詠んだらしい。当事者たる日本海方面の運行業者は、自らを渡海船と称したらしい。
元禄期<1688〜1704>には帆走専用船(=それまでは手漕のウエートが大きく、帆は補助的使用)として確立し。
天明頃<1781〜89>には、輸送貨物の増加による航行ニーズの繁忙化を受けて、「地乗り」から「沖乗り(2点間を直行する。例えば、北海道から下関を目ざす場合に佐渡沖西方経由の遠洋を通航するケース)」へと技術革新が行われた。
先に内航海運専用船と書いたが、外洋航行に耐える大型船の建造を江戸幕府が許可しなかったことを指す。この時代外洋船を建造できる能力があったかどうかは不明だが・・・
同じく積荷の揚げ降ろし機能最優先と書いたが、これは、帆走専用となっても弁才船に甲板が、終始備わらなかったことを指す。
あえて甲板を省く事は、当時港湾内沖合<接岸しない>での沖仲仕による荷役作業が主体だったので、とても重宝がられた。
しかし、荒海航海時には、船内に激高波浪の海水が浸入することを阻止できず。海難事故が多発した。因みに難破(なんぱ)とは「チン・ボツ」に直結する
そこで、採られた航海手法が、毎年10・11月頃〜翌年の3・4月頃までの冬期間、全面運休するルールであった。日本海の冬の海荒れは、人事を越える自然の脅威である。
船に甲板は、世界の常識であり。現代ではごく当たり前のことだが、常識を欠くこの国では、ほぼ江戸時代を通じて。船に甲板は造られなかった。
船の建造コストが安く・かつ荷役作業が早かった。からである
つまり建造費と運航費。この2つの徹底したコストダウンが決めた、本邦的格別仕様であった。
さて石巻港と言えば、河川改修と造船技術を同時並行的に推進し、石巻繁栄の礎を築いた人物が浮かぶ。
その名を伊達政宗と言う。あまりに好戦的で戦国後期きってのアグレッシブ・ファイターだが、江戸期に入ってからは,驚くほどのみごとな変身ぶりを示した。
文字では「伊達=イダテ」と書きながら、冒頭の「イ」音は発声しない。
何とも、不思議な隠された史実があるような氏族でもある。
と言っても、筆者に明確な主張論拠が備わるわけではないが、「イ」音で始まる地名は、古代から存在し・いずれも海に縁があると考えたい。
例えば、伊豆・伊勢・伊予・伊根<いね。丹後半島、現・京都府与謝郡>などだ。
因みに、石巻の成立もかなり古く、古代の地名は、伊寺水門<いじのみなと>であったとする説がある。
「イ」音で始まる地名の探索・考究は、今後も続くこととなろう