もがみ川感走録第31  べに花の7

もがみ川は、最上川である。
紅花講話の舞台も、ここで一挙に上古〜古代からワープして江戸時代に至る。
歴史課題は史料文献に従うため、何も無いところから捻り出すことはできない。
平和な時代は史料文献が残存しやすい、江戸時代はそんな時代であった。
近世の紅花となれば、地の利を得た山形大学・横山研究室の研究業績がある。
その成果は、質・量ともに郡を抜いており。経済後進地域と一般に目される最上川流域だが、その中流域は。封建時代的経済を脱した・特異な農業方式が展開していたことが解明されている。
まずは、順を追って最上川流域部ごとに概観してみよう。
下流域の庄内平野。コメ生産に特化しており、我が国有数の穀倉地帯を形成している。いつの時代も通じてコメ生産では、まず第1に紹介される地域であり。本稿において、紅花との関係で述べることは特にない。
次に、跳んで最上流部に当る置賜地域。
最も内陸に位置しており、庄内平野のように特化する農業生産品目は無い。
ただ例外として、江戸期を通じて生産された左沢・長井の青苧がある。
青苧<あおそ>は、鎌倉時代から江戸期幕末まで武士の盛装とされた裃=高級麻織物の原料である。別名カラムシ織とも言われる。
上層武士と裕福な商人層の夏服は、麻の着物であった。
麻織物でよく知られた商品として、越後上布小千谷縮<ちじみ>・八講布<はっこうふ、越中麻布とも言う。かつての生産中心たる八講田村=現富山県小矢部市に由来>・奈良晒<さらし>・奈良蚊帳<かや>などがある。
ただ、青苧の生産自体が縮小しており、福島県の昭和村や南西諸島の一部で存続するとの報道がある。
青苧の展示で有名なのは、かつて越後上布の生産中心であった新潟県十日町市十日町博物館である。
ここ置賜も後述する村山地域も、江戸時代の中期くらいまで。青苧の生産が主流であり、単位重量取引単価において。紅花を凌ぐこともあった。
がしかし、時代とともに生産品目の中心は、紅花に移行した。特に平野部の農業地帯でこそ紅花選好が早かった。最後まで青苧産地として残ったのが、左沢・長井地区だが米澤藩領ではない。
その青苧もさすが現代ではほぼ忘れ去られようとしている。ただ最近のトピックスだが、奈良蚊帳が素材として見直され。女性向けアウターに使われる動きがあるらしい。
さて、その置賜地域における紅花生産だが、これまた格別本稿において採上げることはない。
米澤藩領の紅花生産は、江戸期中長いこと藩の専売制の下に置かれ。その点でコメ生産と何ら異なることなく概ね封建制農業であった。
もちろん紅花とコメとでは、末端の流通形態は別だが。それは特権商人と武士階級との間の問題であって、管理された農業者に及ぶ変化では無かった。
最後に残った最上川中流域=最上・村山地域
江戸期の早い時期から、農家が流通や金融と直結して商業取引に関与した。
この商品生産と直結した農業生産は、江戸時代の段階では、他にあまり類を見ない希少な農業方式であった。単純に捉えれば、近代化の先取りと言えないこともない。
紅花は先述したとおり染色技術が高度に専門的であり、アト工程である染色工業の立地が京・大阪方面に限定されていた。
しかも染色加工時期は、季節的制約が強く・アト工程の需要期がこれまた限定されていた。
つまり時空間の両方において、一方通行的な偏頗な流通であった。
もちろん、紅花絹布の最終需要は、列島域規模の都市集住の権力階層だが。その点で似通う現代の高級フルーツと対比してみよう。
ご承知のとおり、現代山形を代表する銘品にサクランボがあるが、これこそ都市型農業の典型である。
輸送過程で荷傷みしやすい高級フルーツだが、包装パッケージに独特の工夫を加え・短絡直接送付の定型宅配方式を多用することで。末端消費者と直結する都市型農業の確立に成功している。
この方式は、今ではフルーツ流通一般に普及し、現代日本列島では格別注目されない当たり前のク−ルジャパンだが、海外に出向くと当たり前で無いことに驚ろく。
この手ク−ルジャパンは、ある意味。コロンブスの卵であって、確かなリノベーションである。
やや脱線したが。サクランボ農業の原型は、紅花の商業的生産に起因するかもしれない。
村山地区の紅花農業地帯は、収穫期以前から。「目早・サンベ」などの買付商人が、各農家を戸別訪問して。買付予約を取り・前渡金などの授受がなされた。
「目早・サンベ」などは、自らも農家であることが多く。江戸期早期は、山形城下に集住する特権商人の手先となって暗躍する問屋制前貸資本の末端ブローカーであった。
これが江戸中期以降になって。干花加工が、収穫直後に農家の庭先で行われるように生産・加工方式が切替ると。山形城下以外に拠点を置く・いわゆる在方商人が出没して、集荷・買付に加わるようになってゆく。
ここで、干花加工とは、いわゆる紅花餅を造ることだが。これが、出荷段階の荷姿となる。
似たものに、藍の流通がある。
スクモ=藍玉の原料。四国・徳島は江戸期・蜂須賀藩の専売制として、これまた有名だが。藍と木綿は、これも絹と紅花に負けないベスト・カップルだ。
しかし如何せん、木綿は庶民のための衣料であって、為政者階級とは無縁だ。そのためか頼るべき研究報告が少なく、柳田邦男の「木綿以前のこと」くらいしか見当たらない。
在方商人に関する研究レポートとしては、尾花沢村(=現・同名市)の柴崎家・大蕨村(=現・東村山郡山辺町)の稲村家・下宝沢村(=現・山形市)の会田家・寒河江楯北村(=現・寒河江市)の斉藤家などが知られる。
各在方商人家の取引記録など=残存資料に立脚した個別の研究業績が報告されている。
数のボリュウムもさることながら、質の点でも素人たる筆者の手に負えないが。あえて、拙速要約するとしよう。
遠隔地である京都方面との一方通行的で・しかもある意味汎用需要性が乏しい特殊な産業素材たる紅花餅の納入取引は、代金回収の面や採算維持の面で、難しさが伴うリスキーな商取引であった。
リスク回避のための各在方商人家の工夫もそれぞれ解明されている。
ある者は、京都方面に身内を派遣して販売拠点を置いた。
別の者は、流通経路途中にある近江八幡などのいわゆる近江商人と提携した。
またある者は、地元の山形特権商人を金融・為替機能の面で介在させた。
取引過程での介在者の増加は、ビジネスコストアップであるから。利益面でデメリットとなるが、それを覚悟して備えた。
そのような格別の工夫を構築した在方商人だけが、幕末まで生き残り。明治の新政下で不在地主へと転向できたのかもしれない。
最後に。山形特権商人を介在させた背景について、筆者なりの理解を述べておきたい。
当時の山形商人は、京都方面からの「下り物」を扱う消費地センター的商社機能を果たしていた。
これはモノとカネの往き来<ベクトル方向>が、紅花餅と全く正反対であった。
そのため相場情報面や信用管理面・金融為替機能面で、在方商人と異なる多面性を備えていたようだ。