もがみ川感走録第30  べに花の6

もがみ川は、最上川である。
直前の稿では、紅花がもたらされ・山形の地に落着くまでの経緯をやや強引に述べてみた。
辺境地域=東北部の古い時代相を明らかにすることは、列島内であれ・ユウラシア大陸であれ、とても困難である。
列島人の一特徴でもあるが。極めて上昇・展開の指向が強く、丞相・天下を求めて権力中枢を目ざす風潮は強いが。辺境地域の出来事や庶民レベルの生活面を詳しく知りたくても、資料が全くない事が多い。
同じ事情は、東北アジア各国の国内でもほぼ同様の状況とみるべきであろう。
古代出羽国の対岸に建国された渤海国について、知る人は殆ど無いだろうから。ここで型どおり述べておく。
渤海国は、西暦698〜926年まで存続した。
北東アジアの国勢を知るには、大陸中国の史料文献に頼るしかないが。王朝交替ごとに記述の姿勢が変わるし・自らを全ての価値中心に据えて、周辺他者を見下す中華思想の発露に力点があるから。周辺地域の辺境民族の実態を知るには、一定の難しさ・限界がある。
史料ごとの対立は,少なからずあるが。筆者流に拙速解釈すれば、以下のとおりである。
所在地は、現・北朝鮮からロシア沿海州へと続く、日本海に面した位置に比較的広大な国土を保ったらしい。
構成する民族だが、これまた諸説さまざまであるが、王族はさておき。民衆は、モンゴル系の靺鞨族とされる。
靺鞨族が、高句麗広開土王時代に。その傘下に属したことはよく知られており。
渤海国の建国を高句麗国の亡命政権とする考えもそこから生じた見方であり、全否定する必要もまた無かろう。
日本列島の歴史テーブルに載せると、奈良〜平安時代の半ばまでのおよそ230年弱の存続であった。
国が滅んだのは、隣接する契丹族に滅ぼされたことによる。
滅亡後その地に東丹国が興ったとされるが、東丹国の情報は全く不明である。
因みに契丹<きったん>を英語で検索するとCathayと応答する。
たしか、シンガポールのナショナルフラッグと同名だが、華人75%とされる同国と契丹の重なりはよく判らない。
230年弱の間、渤海国からは述べ35回交流使節が来日している<出典は続日本紀>。
平均すると15年に1度の来日頻度となる。
答礼として日本からは、13回遣渤海使を使わしているが。1回を除いて、その殆どが使節の帰国に同行しており。非礼・無礼の輩を送り返すことが主旨であったかもしれない。
当時日本海を越えることは、至難であった。
往復のいずれかに遭難・漂着の憂き目に遭ったケースが、延べ7回(被災率10%)もあった。
朝貢を受ける立場にあった律令政府は、帰国のため新造船を提供したり・修理をしてやったり=3度も大らかな態度を示している。
一方で、来日使節の非礼無礼をカドに放還したとの記事も4回記載されている。
12年に1度を告げるなど、来日回数を制限していた。
その背景には、東北地方の平定が進行中であった国内事情もまたあったかもしれない。
その平定ままならぬ出羽国に延べ6回漂・来着している(全来日回数35のうち5が来着地未詳なので、仮に母数を30に置換えるとその割合は20%に及ぶ)。
そのうち2回(最初の727と第12回の786年)は、高官が蝦夷により殺害されている。
さて、続日本紀巻16の末尾に、この年=天平18・746年<聖武天皇治世>渤海人・鉄利人併せて1,100人が化を慕って来日した。朝廷は出羽国に配して保護、衣類や食糧を給し自由に還らせた。とある。
<現代語訳は宇治谷孟講談社学術文庫より>
渤海人はさておき、鉄利人については定説が無い。
現代語訳した宇治谷孟氏は、放還を「自由に還らせた」と訳しているが、実に不思議な記事であり・必ずしも史実と受けとめる必要も無いが、気になる記事ではある。
時代背景を踏まえて、このような記事=律令政府の公定史書に載ることを氷山の一角と考えれば、国境観念が乏しく・下層生活民の往来が自由だった頃を踏まえると、より温暖な列島気候を狙って渡来し土着した去来民は結構あったと考えるべきかもしれない
最後に、世界遺産登録が盛行する現代における渤海国観を辿ってみよう。
昔に対する拘りようは、各国・各地・各民族それぞれであるが・・・
関係利害国は韓国・北朝鮮・中国・ロシアの4国。その主張は、自国の地方政権であったとするもの。当該国の民族祖先であると主張するなど。我田引水的強弁・付会が横行する。
結果、相互に相容れない状況であり、当面容易に収まらない様相であると言わざるを得ない。
現代の地球を覆う国際感覚や国境観は、大航海時代以後に成立した資本主義をベースにしたものと言える。が、時間的に後世に成立した現行のシステムが、必ずしも上古〜古代の国境観や人種観が曖昧であった時代相より,優れていると言いきれない気がする。
紅花は地中海沿岸を原産地とする植物だが、ユーラシア大陸の東端では。日本海とも呼ばれる「東アジア地中海」を挟んだ、渤海国と古代出羽国との間を往復する渡来民達が、その種子を運んだかもしれないと考えてみた。