もがみ川感走録第29  べに花の5

もがみ川は、最上川である。
最上川の流域・内陸は、紅花の王国である。
これを単なる宣言文ととるか?現在進行形の事実センテンスと見るか?
その受取り方は、人それぞれであろう。
その紅花生産もアジア太平洋戦争の最中に、栽培が停止された。
敗戦後、紅花栽培を再開しようとの声が上がって。山形市漆山のある農家の火棚から、紅花の種子が見つかり。ようやく紅花の栽培が再スタートした。
火棚とは、囲炉裏の上にしつらえた棚だが。
何代も続いた紅花栽培農家の佐藤さんと隣家の桜井さんの貢献があって、紅花王国ヤマガタの灯は,今日まで灯され続けることとなった。
筆者は、このことを民俗研究家=竹内淳子の著作から知った。が、山形人の県民性の一端を語る話である。
かつて、庄内鶴岡の藤沢蕪を採上げたことがあるが。その時も地域に根ざす・特異な固有種のカブの種子を。密かに人知れず栽培し続けて、後世に伝えた農女が居たことを知った。
そのような確固たる生き方を貫く人がいる。それが山形の風土であると想う。
さて、前稿までに。地中海原産の紅花が、どのような経緯を辿って。ユーラシア大陸の東の果てである大陸中国にまで達したかを述べた。
その地で紅花は、ベスト・カップルである絹の布との出逢いを果した。
その大陸中国から紅花はどのような経路を通って、この日本列島に達したのであろうか?
もっと知りたいことは、紅花王国ヤマガタに到達した経路の解明である。
結論を述べれば、前者の解は容易であるが、後者の解を述べることは難しい。
陸中国から日本列島に達した重要産物=コメや彼岸花にしても、広く知られる概ね3乃至4つの渡海ルートを通って、伝来している。紅花も同様であろう。
最大の謎は、都・文化中心から遠い山形の地で、なぜ?紅花生産が隆盛したかである。
これは誰でも知っていることだが、江戸時代の中頃において、最上川流域が産した紅花は、日本列島全域から産する生産量のほぼ半ばを越えていたと言う。
そして、そのことは、化学染料全盛の現代ではもう忘れられているが。紅花は、寒染めと言う特殊な染色加工を行うために、生産量の殆どが、染色加工の中心である京・大阪に集中的に輸送されたことである。
一部の紅花は、紅色の原料として、口紅生産の地である江戸にも送られた。総生産料の1割に満たない僅かな量であったようだ。
紅花染めされる布は、いつの時代も極めて高級品であり。身分制度の厳しかった江戸時代、庶民とは無縁のものであった。
それでも最終消費地は、江戸・京・大阪の3大都市に加えて。ほぼ全国に散在する大名の居城地であり。エンドユーザーは城中の奥方さまであった。
しかし、染色技法が高度に専門的であったから、「きもの産地」は全国展開することは無かった。
染色技術者が集住偏在し・いわゆる産地を形成した。その当時の人口重心の中に位置する京都方面がほぼ唯一の「きもの産地」であった。
染色原料たる紅花の中心産地=山形と染色工業産地=京都とは、その直線距離がざっと600kmほどあろうか?
鉄道も航空機も無い時代に、これだけ遠い2つの産地を結びつけたものがある。
それは、2つある。
1つは、最上川の流れであり。もう1つは、最上川の河口=酒田から船出する北前船であった。
最上川の水面を往く小鵜飼船が運ぶ紅花のウエートは、小さかったかもしれない。高価な輸送物である紅花は、それほど輸送コスト選好は強くなく。紅花餅は、陸路を馬の背に揺られて悠々と運ばれることもあった。
繰返しだが、輸送手段が限られたこの時代、遠隔地なるハンディを持つ山形での紅花隆盛は、それにしても大きな謎だ。
実りの乏しいであろう仮説を掲げて、以下に妄説を展開してみたい。
まず、紅花の栽培条件だが。コメ程に寒冷気象はハンディにならないようだ。先の稿<通番第27稿>で述べたが、紅花は匈奴<遊牧・騎馬の民、胡族とも言う>の地で栽培され。その後、漢民族の手に渡っている。よって、寒さには強いようである。
次に、史料文献で上古〜律令期における各地特産物への課税制度をチェックしてみよう。
紅花を調物として課税された国は、延喜式によれば24ヶ国あるが、山形の地たる出羽の国は含まれてない。なお、24ヶ国のうち最大の重課率で課税されたのは、京に近い伊賀国である。
当時全国は68ヶ国であったが、最遠地とされる5ヶ国は、輸調そのものを免除されていた。因みにその5国は、出羽・陸奥・飛騨と島国の壱岐対馬であった。
ところで、伊賀国だが。海無し国であり。最上川の中・上流域と同じような農業気象であったと考えられる。
さて、延喜式では紅花と無縁であった山形の地が、ほぼ900年後の江戸中期には、トップ産地に上り詰めている。
その不思議な背景を、あえて述べてみよう。
確たる根拠は無いが、百済王敬福の存在を掲げておきたい。
平城京の中に居て鬱々たる日常を送っていたらしい聖武天皇が、人生最大の行事と位置づけた仕事は、大仏開眼であった。
憂鬱の原因は、盧遮那仏に塗布するべき金が国産でなく・入手困難なことにあった。
マルコポーロジパング命名された日本列島だが、それは後世のこと。奈良時代は、未だ金の輸入国でしかなかった。
奈良の王宮から、日々出来上がってゆく大仏像を遠望しながら。聖武天皇は、金色に仕上げることを半ば諦めかけていた。
ところが、天平21・749年陸奥国守=百済王敬福が、小田郡の地から金が産出した旨を報告し。黄金900両を貢上した。
これに驚天動地・歓喜した聖武天皇は、年号を天平感宝と改めたのだから、国家的大事件であった。
因みに、約50年ほど遡る文武朝の初期=律令政治が本格化し始めた698〜701年=この4年の間に、延べ15ヶ国から19件の鉱物資源献上の記事が集中するが、黄金の発見例は報告されていない(続日本紀)。
陸奥産金の一件は、ヤマト朝廷の北進事業の経過に応じて支配領域が変化するため。その実体掌握は容易でない。
陸奥国小田郡とされる産金地は、現在の遠田郡涌谷町とされ。当時における陸奥国の北端境界と考えられ、金の産地と言うよりも金の交易地と捉えるべきかもしれない。
さて、金産出に大いに関与した百済王敬福<くだらこにきし・きょうふく>は、たちまちに地方官の境遇から脱し・中央官僚に大抜擢され。従三位刑部卿の高位高官で生涯を終えた。
韓半島百済国の王族が列島内におって。ヤマト朝廷に官員として仕える時代だから。広く東アジアの軍事情勢を弁えておく必要があろう。
660 百済国(=韓族と半島倭人が混住する半島南部西側の国)滅亡
663 白村江の戦い<ヤマト朝廷派遣水軍が唐・新羅連合に敗れる>
668  高句麗国(=ワイ・貊族から成る半島北部の国)滅亡・・・ワイ=さんずい偏に旁が歳の字
672 壬申の乱<ヤマト朝廷内乱により近江大津王権が消える>
676 新羅(=韓族と半島倭人が混住する半島南部東側の国)による半島統一なる
694 藤原宮<=京とも書く>に遷都する
698 渤海国(=高句麗亡命政権。靺鞨族が主体、沿海州に展開した)建国
なんとここまでが、やや長過ぎる布石記述である。
半島の軍事抗争の余波を受けて、大量の亡命者が日本列島に難を逃れた。
識字率も高く・高い技術や文化的蓄積に優れた渡来人は、発展途上にあったヤマト朝廷におおいに重宝がられた。
失われた百済国王族の末裔に当る百済王敬福の子孫達は、数代に亘り出羽国司に任命されている。
文化先進域=百済に根を持つ彼等は、紅花に精通していたであろう。任地山形の最上川流域=内陸部を選んで、紅花の栽培法を伝えたのではないだろうか?
まだある。
渤海国は、日本海を挟んで古代出羽国の対岸に位置する。その渡海近縁性をもって、度々朝貢し・大量の移住者を送り込んだ。渤海国の民もまた、紅花を携えて渡来し、栽培法を伝えた可能性が多いにある。
根拠と言えるかどうか?よく判らないが、ここで北ユーラシア地域の民族構成を概観しよう。
紅花を伝える経路に居た匈奴族は、チュルク系ブルガル群。渤海国の靺鞨族が、モンゴル族高句麗国ワイ族・貊族は扶余系。韓族と半島倭人並びに列島和人も含めて、全てがアルタイ大系族のうちに含まれるモンゴロイドである。