北上川夜窓抄 その6  作:左馬遼 

北上川のことを語る時、必ず付き纏うのが、日高見国<ひたかみのくに>のことである。
有史以前〜上古・律令前代における地域の纏まりを差して呼ぶのに、〇〇国と表記するのは、この国ではよく見かける表記の例ではあるが、ある意味困った風潮であると断っておきたい。
ここで言う困った風潮とは、この国一般にみられる「国妄想」のことだ。だが、その前に抑えて置くべきことをまず述べよう。
井上秀雄の著書=古代朝鮮<講談社学術文庫・第1刷2009年発行>30&153頁の論述によれば、東アジアの地における国家成立初期の文献資料は、ことごとく中国側史料によらなければならない。
そして、その中国史料の中における周辺国に対する歴史記述は、その編纂姿勢が一貫せず・各地の風俗・地理事象などの記事内容が,全く信頼に乏しいと指摘している。
次に筆者が言う「国妄想」だが、実力以上に先進かつ大国であることを吹聴したがるきらいがあり、国としての体制整備の時期を大きく遡らせる傾向がいつの時代も著しい。
現代感覚の国民意識や国境概念をそのまま遡及させ=つまり強引な曲解を重ねて、国の成立時期を早めてしまう記述も目立つ。
とまあ、筆者の独断と偏見による長い前置を述べた上で、表記を改めることにしよう。
<ひたかみのくに>に文字を当てると、日高見郷里または日高見郷土となろう。
ここで表意文字を使用するには、それくらいの気遣いが必要であることを申し添えたい。
さて、「ひたかみ」にある大河は、「きたかみがわ」のみであるから、「きたかみがわ」の原語は、「ひたかみがわ」でしかない。
相違点は、『ひ』と『き』となる。
発音・発声の面から、『ひ』と『き』とが、どう親密なのか?それとも疎遠なのか?を究めたいのだが・・・
浅学非才の筆者の力量では、プラス・マイナスの別を問わず。いかように訛って発声してみてもHI音とKI音を繋ぐ回路らしき単語・用字例を見つけ出すことはできなかった。
そこで、逃げを打つ作戦となるが、これとても筆者自身大いに眉唾だ・・・・アイヌ語の「ヒタラカムイ」を「ひたかみ」の語源に近い例として、掲げておこう。
いよいよ型どおり、「日高見国」が登場する文献例を検討する。
成立時期が古い順にまず、風土記から紹介しよう。いずれも筆者による現代語置換です
常陸国風土記の中に、信太郡を建てる記事がある。
筑波<つくは>・茨城<うまらき>の2郡より700戸を分って、信太<しだ>郡を置く。此の地<くにと詠ませている>は本の日高見国なり。
以上が、文意の要約だが。注目したいのは、信太郡の位置である。
霞ケ浦の中とも言うべく、現・茨城県のほぼ中央部であって・福島県との境界付近でないことだ。
現・霞ケ浦の辺りだけが日高見郷里であった。と筆者は考えてない。
日高見人の居住域を限定して考えるのは、明らかなる誤りである。
ここでは詳細なる根拠を示さないが。アイヌ語地名の研究者によれば、日本列島全域にアイヌ語地名が散見すると言う。
現在の日本列島住民の多くは、縄文人弥生人の混血とする見解がある。
後来の弥生人は、稲作に長けていたこともあり。比較的短期間で列島各地に根を張ったが、その時多くの地に先住民が既に生活していた。いわゆる縄文人であり蝦夷<えみし、えぞ>であり、アイヌの祖先
でもあり。土蜘蛛・国栖・隼人・熊襲など呼び方と居住域はそれぞれだが。ほぼ相互に親縁関係にあるか・同一の人種・民族である。
次に。常陸国風土記逸文に出てくる信太郡の名称由来を述べる記事である。
赤幡垂<あかはたしだり。葬礼の幟のこと>の故事から後世<しだ郡>の地名が起ったとしている。
信太郡の有力者が陸奥蝦夷を征討し、凱旋の途上郷里目前の多歌<たか>郡で死去し・その地で直ちに葬儀が行われた。その葬列が日高見国に至ったとある。
地域の伝承で、時代が不明だが。風土記成立当時既に陸奥の地域への蝦夷封じ込めが終了していた様子が伺える。
となると風土記成立の時期如何?となるが、岩波文庫版<第1刷1937年発行>の編者たる武田祐吉は、和銅6・713年元明天皇が諸国に命令した地域産物・地名起源・古老が伝える伝承などの報告を求めたもの=それを風土記であるとしている。出典は続日本紀であり、そこに風土記なる明文はない。が、風土記成立の契機とみることは通説となっている。
因みに、和銅6年の成立では、古事記よりアト・日本書紀より古い。大宝令が成って既に10数年経過しているが、おそらくこの頃にヤマト朝廷は、国の要件を備えたものと考えてよいであろう。
最後。日高見国名が出現する記事として、日本書紀景行大王27年(=有史以前につき西暦対応年表示をしない)・条がある。東夷の中に日高見国があり・その住人を蝦夷<えみし>としている。
最後の記事は、一応文献例なので紹介したのみである。
その東国出張から帰還した者の名が武内宿禰である。
彼は日本書紀の中で200数十年も生きて活躍しており、現実性も合理性も無い人物像だ。史書編纂の都合から修飾・架上のためねつ造された記事であろうとのみ書いておく
日高見郷里とは、則ち律令制下の陸奥国であり・日高見人とは、すなわち蝦夷のことである。
蝦夷の住地が陸奥郷土なのだが、時代を通じて縄文・弥生の混在居住地帯であった。それが現実であったに違いない。
最後に、日高見とは、陽が昇る地。日出づる処。ユーラシア大陸で最も東に位置する陸地の意味である。
「日のもと」に文字を当てると、日本となる。
「日本」とは、最初に自ら使用した国号であるとされる。一方で、その日本国号は、日高見郷里から盗用したとの見解を述べる者もまたいる。
その日高見郷里すなわち陸奥の。臍のように要の役割を果したのが、北上川の流れであった。