北上川夜窓抄 その5  作:左馬遼 

北上川は、古代陸奥国の象徴である。
大河は、世界的大文明を生み育てるベーシック・インフラつまり基礎的要素である。が、明治以降の日本列島は、クロフネ・ショックを受けて国策の基幹が革まり、河は見捨てられた。
最も顕著な施策が鉄道建設による殖産興業である。河川政策もそれに沿った方向に捩じ曲げられたため、河に対する関心度は、大幅に後退したまま現在に至っている。
河は、負の記号を持った自然遺産では決してない。
河は、いつの時代も交通インフラたりえる むくの自然である。
このことを多くの現代日本列島人は、忘れてしまっており。
河をゴミ捨て場のように考える困った風潮を持つ人すらいる。
この”河に対する困った風潮”は、古代陸奥国を受けた近代東北においても見られる。
この国で”河”に背を向ける存在と言えば、鉄道・高速道路・新幹線などの人工構築物である。
これ等人類史的にニュウフェースの交通インフラ・システムは、もろもろのネックを抱えている。
まず。人工構築系は、未踏・先端系の技術に立脚しており、高コストである。
高コスト体質は、この国の産業競争力弱体の主因であり。過度の人工構築系依存が、輸出競争面で劣後する主な背景ですらある。
次に。人工構築系は、複雑システムだからこそ災害耐性に乏しい。
列島は世界でも有数の地震多発地帯だが。ほぼ4年前に発生した東北3・11大震災で、東北新幹線がサービス再開にほぼ半年を要したことを思い出すべきである。
最後に。人工構築系は、外観面で自然景観と調和しないことである。
写真撮影の好対象と捉え・マニアが密集するポイントがあるとか?
何を美観と感ずるかは人それぞれではあるが、ポイントの存在自体。
ポイントを除く他の多くが、不調和景観であることを物語っているであろう。
さはさりながらしかし、将来に期待しよう。
明治以来の河川行政策も改まり、近未来の自然回帰の工事も含めて。より柔軟かつ多様な方向へと是正されて行くことであろう。
さて、北から南へと「水流の摂理」に従う、その川の名が「北上川」とは、実に振っている。
今日は、その名の由来について一考しよう。既に知っている人には、退屈な話題であるが・・・
複数ある源流のひとつ=弓弭の泉(ゆはずのいずみ。源泉が国土交通省の採用する源流)だが、通称御堂観音の正式名?は、北上山新通法寺正覚院らしい。
いわゆる山号に「北上」がある。
因みに、弓弭の泉の所在地が面白い=岩手県岩手郡岩手町、いわての音が3連発だ。
諸説・諸本に、そのことを尤もらしく書いてある。が、筆者は疑いありだ。
この源泉が出現した背景に、人為の奇瑞があるそうだ・・・・
時は、天喜<てんぎ>5・1057年旧暦6月。前九年役のさなか、安倍一族を追って源頼家・義家<父子>の軍勢が、この峠道の途中。多くの将兵が,喉の乾きを訴えて,行軍おおいに悩んでいた。
源義家が立ち止まり、弓弭を以て。とある地面をコンコンと叩いたら・たちまち泉が出現して、冷水がコンコンと吹き出し。課題解決し・大勝利となったとか・・・・
これの故事を仮に事実としても、同名であることの紹介記事に過ぎず、名称由来となりにくい。
何故なら、泉から流れ出した水流が「北上川」なのであれば、河が先。奇瑞の源泉をセールスポイントに御堂観音ができたのはアトであろう。時系列的にアトの名で、サキの由来にはできない。
さて、「北上川」の名が、史料文献に初めて見出されるのは何時か?
文治5・1189年 吾妻鏡<あずまかがみ>だ。
因みに、吾妻鏡鎌倉幕府の正史とされ、この年源頼朝奥州藤原氏を討伐して平泉に入っている。
いささか余談だが、源頼義・義家・頼朝は、先祖・末裔の血統関係だ。ともに源氏の正統・嫡流とされる。
この血統の源流は、河内源氏であり。渡来人系の武門とみるべきであろう。
その後、関東が武士名門たる源氏のホームグランドとされ。後世の建久3・1192年源頼朝が、征夷大将軍となり・幕府を鎌倉の地に置くことになる。
おそらく、その根本の契機は、源頼義陸奥守にあって鎮守府将軍を兼任(天喜元・1053年)したことに由来する。
関東が、陸奥に至る経路であり。権力中心たる平安京と化外ビト蝦夷の住地=陸奥国とを結ぶ交通連絡を扼する地理地形上の要地であったこと。
更に、列島史的に韓半島から溢れ出した渡来系流民多数が、来着・集住し。遊牧・騎射に長けた武闘集団を育みやすい土地柄でもあった。
北上川」なる固有名詞の初見を繙き、想わぬ脱線となってしまった。本題に戻ろう
あえて、文献の記載例を探れば、”単に河”としての登場だが。続日本紀巻33に、陸奥国司より当地の蝦夷が蜂起して桃生城(ものう)を攻略し・地域の交通を遮断したとの報告が載っている。時に宝亀5・774年<奈良時代光仁天皇の治世> 所は現・宮城県桃生郡のうちである。
古代律令期に置かれた陸奥域の城は、固有の名はないが、北上河に臨んですべて造られた。陸奥と書いて「みちのく」と詠む所以である。その国域に入れば、路の機能はことごとく肩代わりして北上河が担うのである。
奈良時代における蝦夷蜂起は、宝亀延暦陸奥出羽争乱<仮称>とも呼ぶべきであろうが。
この頃内政全般が紊乱著しかったので、太平洋・日本海両岸を貫ぬく僻地での蝦夷の軍事行動は、大規模であっても、あまり注目されてこなかった。
続日本紀を拾い読みすれば、光仁天皇宝亀5・774、7・776年。続く桓武天皇延暦8・789年に、蝦夷蜂起の記事がみえる。
中でも延暦蝦夷争乱は、記事も多く・記述が生々しい。紙数の都合端折るが、東山・東海の諸国から挑発した派遣軍の兵員数は、凡そ27千人。官軍の死傷者数約3千人。損耗率11%。
対する蝦夷賊軍の推定死傷者数約0.3千人に過ぎないから、官軍の僅か10分の1でしかない。
これをもって総括を急げば、賊軍が官軍をしりぞけたことになる。
もちろん、この種の史料の数字をそのまま鵜呑みすべきでない。が、賊軍側は、その後の歴史上の敗者であるから記録は全く残存しない。また、蝦夷の源流が列島先住・土着の縄文系と措定すれば、紛争戦乱の地は無文字文化圏と目される。
出てくる固有名詞は、賊の首領阿弖流為アテルイ>・衣川・胆沢<イサワ>・日上の湊<ひかみ>くらいのもの。肝心の北上川は、”単に河”であって。固有名詞ではない。
以下は余談だが、桓武天皇は、続日本紀上では最後の巻に。今天皇として登場する。
その治世は長岡京遷都から平安京遷都までの政治混乱期のさなか、最果ての東北と西南=九州の両遠隔地にほぼ同時に勃発したトラブルを抱えていた。
史料文献の中に、桓武天皇が現地軍の指揮官を督励し・その無能ぶりを誹謗する記事が多出している。
天皇名(=ただし漢風諡号)に「武」の文字を担うように、戦好きの権力者であったか?
争乱を遠隔地にセットすることで、足許の話題をそらし。政治手法として活用しつつ、平城京撤退を荒技をもって強行した。のかもしれない
延暦9・790年従軍者に型どおり論功行賞を行なって、東北蝦夷地の終戦処理とした。
終りに。列島史が大転換するとき、歴史上の大事件の起点となる場所は、おおむね3ヵ所である。
東北地方・九州地方・吉野熊野である。
前2者は、権力中央から最遠の地だが、唯一「吉野熊野」は、権力圏内にある。しかし、天険の高地山林だから革命家が身を潜めるに相応しい。
「吉野熊野」に一時身を潜めた革命家の革命事業が、すべて成功したわけではないし。ここではいちいち名を挙げない。
この3ヵ所は共通して、水・陸のいずれにもアクセスしやすい交通の要所であった