北上川夜窓抄 その4  作:左馬遼 

北上川は、名前のとおりの川である。
源流が北にあり・河口が南に位置する。
よって川の水は北から南に流れ下る。名は体を表すように、素直な川である。
この当たり前をことさら鬼の首でも摂るかのように,畳み掛けるのもどうかと思うが・・・
水流の方位など、流れている水にとってどうでも良い事である。
水はその性質に従って、低地に向かって速やかに流れ下るのみ。
この低きに流れる事を辞めない「水」の容赦ない性質=運動原理は、流域住民にとって実に厄介な問題の原因となる。
洪水のことである。
雨の日であれ・晴天の日であれ、ほぼ一定のペースで悠々と流れ下って欲しい・・・
そうなれば稲作農業は、特に助かるのだが・・・。
米を多く稔らせるには、時々に水を抜き・根元を乾燥させて、開花・結実を促すなど虚実さまざまの駆け引きをするらしい。従って、増水したまま何時までも水が溜っているのは、悪水と称して避けなければならない。
とかく農業灌漑は難事だ。
上水道が完備した今日。川は市民生活・就中飲料水との関係が、忘れ去られて久しい。
しかし、大型文明は、大河川の流域に興った事実を忘れてはならない。
川に備わる効用は、農業用灌漑用水・水上交通の面で、今日でも色褪せていないようだ?
北上川の舟運と言えば、河口=石巻港が「要」である。
北上川の幹川総延長243kmは、南に向かってひたすら流れ下り・石巻港で海に注ぐ。
石巻の先に、何があるか?と言えば。答は江戸湾である。
筆者の想定は、概ね江戸時代の帆船による航行時代がベースなので。ついつい古い地名を使ってしまったが、現在の東京湾の事である。
幕藩大名が果すべき義務で、最も重要度の高い役務は、参勤交代であった。
石高に応じた兵役を、大名行列として具体的に示し。然るべきチェックをクリアーすることが、参勤交代の一側面であった。
戦闘要員数を確保し・武器を装備・携行して、江戸の将軍を警護するべく。定期的にリハーサルを実施して検閲を受ける。それだけのことだが、藩庁にとって経済的な負担はとても重かった。
経済行為は、あるものの負担=すなわち他のものの利益である。
大名行列が通過する街道筋、中でも宿場は経済的に潤った。
消費都市江戸は雪だるま式に拡大した。参勤交代の終着点に贈られた賜物であった。
南部藩や仙台伊達藩は、参勤交代の費用を捻り出すために。北上川流域の産米を集荷して石巻港まで輸送し、海上舟運により江戸に積出した。
百姓の納める年貢米は、江戸藩邸に滞在する藩士の飯米・給金原資であり・滞在費用を賄った。
しかも江戸地で通用する幕府小判に替える必要があった。
つまりコメは、現物食糧であると同時に代用貨幣の機能をも併有する経済財だった。
この時代、単位重量からして、最も輸送困難な経済財が、コメであった。
コメを陸路で運ぶ事は、コスト面の負担増や砕米多発の面からほぼタブーであった。
だからこそ、北上川の流れが南方位であった事に大きな価値がある。
ここで言う価値とは、川の流下方位(源流と河口を結ぶ仮想直線の示す方角を言う)のことだ。
太平洋岸東北諸藩は、江戸指向船を仕立てて河村瑞軒が拓いた東廻り航路を利用するので。北上川の流下方位は、その点実に有効であった。
それと全く逆の流下方位を持つ川がある、阿武隈川である。
福島県から栃木県側に越える・いわゆる那須野高山帯に馬道が多いのは、阿武隈川の流下方位が、江戸に背を向けていることの反映である。流下方位が、マイナス機能を示しているのだ。
さて、同じ東北でも日本海側に位置する諸藩は、どうであろうか?
岩木川雄物川最上川など代表的大河の流下方位は、殆ど北に向かっている。江戸指向にプラスだが・上方指向としてはマイナスとなる。
この3川以外にも川はある。例えば、米代川子吉川三面川・荒川などだが、これ等の川の流下方位は、プラスマイナス・ゼロとなる。
これ等の川は。概ね内陸高地からほぼ直線的に海岸方向に向かって流れ下っており。舟運の目ざす指向方位が、どちら向きであっても。メリット・デメリット差は,ほぼ無い。
もちろん、河川舟運においても全ての輸送は往復ニーズだ。
川を遡上する所謂帰り荷がある。
最も重いものは、食用塩である。塩と米の軽・重比較は、それほどたやすくないが。塩は通年的必需品であり・年貢産米ほどの季節集中がない。
上方からの下りものである古着などの衣料品類は、陸路と競合する事が多い。軽量物資の輸送は、自由度が高く、選択幅が大きいからだ。
木材は、長大かつ重量物の上り荷だが。幅の狭い上流域を除き筏流しで下ろすことができる。
そろそろ紙数が尽きる。
東北諸藩の参勤交代は、ほぼ陸路を経由したが。江戸から遠い西国大名は、海路を船で往く事が許された。この場合全陸路との損得比較はどうなるだろうか?
それはまた別の機会に考究するとしよう