もがみ川感走録第28  べに花の4

もがみ川は最上川である。
前稿では、衣料素材の王者たる絹とベストマッチ色料の紅花が、ユーラシア大陸のどこか=シルクロードの途上で出逢いを果したであろう。と想像たくましい・やや狂狷附会の仮説を論じた。
では、その出逢いの時期は、何時のことであったか?となると、はたと答に窮する。
紅花としては受入地である中国だが、そもそも赤い色を発する素材は、いつの時代も必要度は高い。古い時代・既に国内での自己調達ができていた。
ヘミュドゥ遺蹟から鉱物系の顔料が発掘出土している。
因みにヘミュドゥ遺蹟(漢字を充てると「河・ぼ・渡」。”ぼ”の字は、偏が女で旁は母から成る。1973年最初に発見された村の名を遺蹟の名としたもの。筆者の現有システムで漢字表記できず申し訳ない)は、長江流域の南に当る杭州湾南岸から舟山列島<浙江省・寧波市〜舟山市>にかけて広がる文化圏だ。
年代は、新石器時代=BC5〜4.5千年頃。最古の稲栽培遺蹟のひとつとして知られる。
稲作による食糧生産の方式はその後日本列島に伝わったが、日本列島に最初に上陸した縄文早期人は、稲作を持ち込まなかった。
彼等は、大陸〜台湾〜南西諸島を経由して渡来したが、大陸のどこでも稲作と全く遭遇しなかったか?遭遇しても関心を留めなかったか?したのであろう。
日本列島に稲作が伝来したのは、それからほぼ1万年後の縄文晩期とされるが。そのルートは長江流域から北上した後、黄海を直渡したか。韓半島を経由した後に、日本海を渡海して伝来したようである。
上述のヘミュドゥ遺蹟は東シナ海沿岸域、つまり上海<=長江の河口>の南かつ台湾島の北に位置するが、この時・空軸はその後の稲作のグローバルな伝播を想うと、縄文人の移動経路との関係で、絶妙ポイントであったと言うべきである。
ここで「顔料」なる用語を使ったので、型どおり説明しておくことにしよう。
ものを着色する素材(=有色不透明の粉末状のもの)を総称して色素・色料と呼ぶが、顔料と染料に分けられる。
顔料は、水・油・アルコールなどに対して原則不溶性であるもの(分散色料)。陶磁器用の釉薬(うわぐすり)が代表例。対する染料は、原則として可溶性の粉末色料を言う。
さて、本題に戻ろう
最上川流域の農業に最も華やかなゴウルド・エイジをもたらした”紅花”が、いつ・どのように日本列島に伝わったか?そして山形の地に達したのは何時頃か?
その経緯を知りたいのだが、ようとして道は開けない。狂狷附会の仮説を連発銃のように繰出すのもいささか疲れる・・・
律令制下の税目に”べにばな”があるから、大宝令<制定は701年>以前既に栽培されていたことが判る。しかし、古くから知られる赤色系色料に茜や蘇芳がある。
紅花と茜(あかね)蘇芳(すおう)の中で、いずれがより早いか?已然決めかねる。
前者が地中海原産種であるに対して、アカネは、台湾・本州以南・韓半島・中国暖地などに自生する多年生山野草である。
茜染めは、赤根を染料<=アリザリン同体を含むもの>として使用するが。”紅花”や”蘇芳”と比べて,堅牢で実用面で優るとされる。
茜は漢方生薬としても使われる。主な用法は、利尿・解熱・強壮などである。
有用な山野草は、時代が遡るほどニーズが高かったに違いない。
万葉植物辞典を牽いてみた。
万葉集巻1−No.20に
   あかねさす  紫野行き  標野行き
     野守は見ずや   君が袖振る
西暦668年(天智称制7=即位初年)5月5日、場所は近江国蒲生野。額田王(ぬかだおおきみ・女)の作とされる。
この5月5日は、男・女に分かれて宮殿外の御料地に出て、薬や色素などの原料を捕獲・採取する重要な公式行事があった。と同時に、野外で解放気分に浸る環境は、若い男女の心を躍らせた。
紫(むらさき)野・標野(しめの)=ともに天皇の御料地。一般人の立入りを禁ずるために〆紐で区切った山野のことである。男どもが駆け巡る狩猟地も併設。鹿の角などは漢方素材だ。
一説にこの歌は、行事終盤の宴会の場での贈答歌とする見解がある。
筆者もそう理解したい。
蒲生野は作歌者である額田王の縁故地に近いので、宴会出席者の多くは目撃したままを歌にしたと解したことであろう。そこで歌の印象が更に強まる。
満座の男どもの次なる関心は、皇太弟大海人皇子が袖振り行動の対象とした美女は誰か?と頭を働かせる。
美女と言えば采女となるのが,この時代の常識。采女<うねめ>は、天皇一人に捧げられた女性集団だから、狩猟の場=男集団からこっそり脱け出し・薬草採集の園地まで来て袖を振るのは、タテマエの上でもタブーである。
酒宴の場で、披露した歌が一座の話題となる。
即席歌のつくり手は、更に名声を昂めたことであろう。
以上が筆者の解釈だが。
この4年後に壬申の乱が起り、近江大津王朝は壊滅する。
万葉学者の多くは、天智帝と大海人皇子<血を分けた>兄弟間の恋の鞘当てとする見解だが、込み入り過ぎだ。退けたい。
脱線ついでに敷衍すると、天智帝即位時に、令制上の皇太子を空席にしながら、令制外の呼称ともいうべき皇太弟なる曖昧なポストを設けた。これが後の災いの主因となったと考えたい。
まだある。初句の「あかね」は、紫に掛る枕詞とする立場がある。
多くの枕詞は古代朝鮮語の音声を介して意味のある語句に置換えることができ、彼の国の『郷歌』に通ずるとする見解もある。
主題の紅花から逸れて、想わぬ展開となったが。ここで紅花の主要諸元を押えて置くこととしよう。
キク科の二年草、開花は夏で茎頂に1弁(これを末摘花と呼ぶ=源氏物語のヒロイン名)、アザミの花に似ている。
葉がまたアザミのような鋸歯状で鋭いトゲだ。これが採集時の支障となるため、花の摘み取りは早朝の朝靄の中が良いとされる。
原産地は地中海沿岸域。古代エジプトのミイラを包む布を染めたことで知られる。意外なのは、欧米への伝播・普及が大航海時代よりアトの16世紀であることだ。
日本列島への渡来は、飛鳥時代以前とされる。
呉藍<くれのあいと詠む・万葉集より>の表記から呉(古代から中国は長江河口域を指す地名)より搬入されたとする見解がある。稲の渡来ルートとも重なる。
紅(詠みはクレナイ)の語源が、この呉藍とされる。
色料としては、黄色<サフロール>と紅色<カーサミン>の2つを備える。口紅の原料は後者。
漢方薬は、同じその花から抽出してつくる。主な効能は、鎮痛および婦人薬もろもろだ。
最後に、竹内淳子民俗学・生年不明)によれば、紅花も藍も顔料にして染料であると言う。植物性の色料としては極めて希有な事だとしている。
同女史は、法政大学出版・ものと人間の文化シリーズから藍・草木布・紅花・紫など多数の著作をリリ−スしており、本稿は多くの示唆を頂戴している。

紅花 (ものと人間の文化史)

紅花 (ものと人間の文化史)