もがみ川感走録第27  べに花の3

もがみ川は最上川である。
前稿で、紅花と絹はベスト・カップルであると書いた。
しかし、紅花の原産地は地中海付近であり、絹の出現は同じユーラシア大陸でも全く逆サイドの古代中国であったから。この2つの素材が出逢うには、人類史200万年の中でも、この1万年つまりごく最近の時=最後の0.5%=つまり直近の過去であることに気がつく。
紅色に染まった絹布を見た記憶もあまり無いが、庶民にとってまさしく高嶺の華であり。王紳貴女だけが身につける衣料素材である事実は、いつの時代でもあまり変っていないようである。
紅花と絹の出逢いに貢献したのは、陸路のほうのシルクロードであったと思いたい。
海のシルクロードを排除するべき格別の事情もないが、温室=つまり生物の生育する環境を保持する閉鎖空間を保つ器材。
この新発明が出現したのは、大航海時代戦艦バウンティー号の反乱が起きた前後のことだから。あまりに遅過ぎて都合が悪い。
海のシルクロード経由で運ぶ方法として、もちろん植物種子の形がある。
しかし、それはその時・その場でのニーズを想うと、無理があるようだ。
後世史家的なアト付け必然的解釈こそ排除さるべきであろう。
このベスト・カップルは、シルクロードのどこかで,偶然に出逢ったものと考えたい。
まず、絹のほうの条件を述べておきたい。
世に知られる蚕と桑の物語は、あらためてここで披露する愚はしないものの。古代中国の歴代王朝は、生産の独占を維持するために。長いこと国外流出を阻止するための禁制措置に汲々としたことが知られている。
そのことを物語るエピソードは、前漢(BC200年頃〜紀元前後まで存在した王朝)の頃、未開とされた異民族匈奴(後段で再出します)に嫁がされた王昭君の秘話に代表されている。
そのような事例は、幾つもあったのであろうが。彼女らは、髪の中や被っていた帽子の中に蚕種を潜ませるなど苦心惨憺して、国外に持出したとされる。
その成果については、概ね5世紀の中頃、欧州の地に絹産業が起ち上がったことで知られている。
近年世界遺産に指定された富岡製糸場は、明治の初期にフランスから技術導入した施設だが。欧州の地におけるシルク産地は、イタリアとフランスが双璧として知られる。
生活産業の集積が、伝統産地に限定されるのは、デザインとセンスが備わる土地柄と重なるからであろうか?
さて、偶然の出逢いを,想像たくましく展開するには、まず女の化粧を土台にするべきであろう。
白い肌に真っ赤なルージュ。
若い女の魅力は、飾らない健康美に宿るが、口紅を塗ってでも美しく粧いたいとの願いもまた、幾つになっても断ち切れないニーズであるに違いない。
現世の人類は、アフリカから域外に流出したホモサピエンス・エレクトスを共通の先祖に持つと言う。白い肌のコーカソイドは、移住進出先の風土・環境がもたらした変移だが。ユーラシア大陸の東側であるモンゴロイド世界では、白い肌は希な存在として貴重に遇された。
貿易は対象が物資に限定されてもう200年ほどになるが、労働力の移動も含めてヒトの交換はいつの世も解消することはない。
現代では、中央アジアの新疆ウイグルに白人の集住を見るが。中国史上最も国際的に開かれた王朝とされる唐の時代、玄宗皇帝も楊貴妃も白人系の血を引いていたとする見解がある。
ホータンは、現代でも繊維産業が盛んであり。シルクロードの伝統を引継いでいるようだ。
中国の近隣に紅花と絹との接触を求める考察にお付合いねがいたいが、列島の地理のように四海を海に囲まれる環境と異なり地続きの大陸だ。
古い時代の座標軸を文字で記述することの難しさを痛感する。最大版図を標榜する清代や共産中国をベースに語るべきでないとの自制も働らく。
とまあ、長い前置を踏まえてからいよいよ本題に進もう。
祁連山<きれんざん>なる山が、甘粛省にあって。BC200年頃〜紀元前後まで、その地を占めていた匈奴<騎馬遊牧の民。別名は胡族>が、その地で紅花を栽培していたと言う。
しかも胡族には、結婚する娘の顔に臙脂(えんし)を塗る風習があったと言う。
臙脂の原料が、紅花であることは言うまでもない。
標高4千メートル級の高山を眺める乾燥と寒冷の内陸で、果して紅花の栽培が可能かと言えば。答は雪融け水があるからイエスとなる。紅花は、水はけの良さを好むらしい
臙脂の風習だが、顔を赤く塗った女の顔をゆっくり見る機会は全くない。
ただ韓流ドラマの中で王朝風の結婚式シーンに出くわした記憶がある。韓族は必ずしも騎馬遊牧系ではないが、大陸続きの半島だから多様な文化が混在しやすい風土である。
現代の映像文化は(いささか筆者の独断・偏見だが)、爛熟の極みにあるような気がする。
上述のシルクロードも、現実に訪ねた経験はないが。その昔、キタロウの背景音楽と石坂浩二の名調子の語りでもって、すっかり古郷の景観となったような誤解がある。
とりわけ,最近のテレビメディアは、現場の動画を流すことに汲々としている感すらある。
その困ったサービス精神は、視聴者の感性を確実に曇らせる。
それは明らかな害毒であると言わざるをえない。
砂漠の風景は、千年・五千年一日として変化してないとのイメージを固着させる。
筆者が思うに、昔の砂漠の方が今よりやや湿潤であったのではないだろうか?
このシリーズでかつて筆者はカブのことを書いた(1〜2月)が、スズナスズシロの原産地もまた地中海方面で・その地では雑草であったらしいと書いた。それは野菜学者青葉高氏の提唱だが、それら植物が伝播した時代の中央アジアの平原は、今以上に水量豊富であり。
西の端から東の果てに達する途中に、栽培可能な河川と肥沃な緑地が点々と繋がるように分散していたとする別の学者の見解があったことを思い出す。
まだある。これは筆者の少年時代の科学知識で、今日フォロウできないのが残念だが。地球の最外縁にある外気圏(エクソスフィア。地表から500km上空の宇宙)から、毎年50m公式プール1杯分の水が外部宇宙に逃げ出すと言う。
太陽系の惑星で液体の水を保つのは唯一地球のみだが、長い間に確実に水を失うことで、無水・乾燥の月や火星の環境に移ろうとしているかもしれない。
やや長い迂回をしたようだが、西の端に咲いていた紅花は、この1万年の間に、中国の近隣で。
口紅か頬紅が、白い絹布に、誤って触れたか?ヒラメキある女性の智慧でもって、布を染めることとなったらしい。
今日のところは、紙数が尽きたので。筆を置くこととするが、江戸時代の紅花王国である出羽国=”やまがた”に到達するのは、明日のこととなろう