北上川夜窓抄 その3  作:左馬遼 

北上川の第3節である。
河口が2つあって、思わず手間取ったが。これもまた受験教育の悪弊から生じた国民性の余波か?と,我が身の脱皮=変身の拙さを嘆くばかりである。
何でも1つに絞り込む列島的閉塞思考。その基層は、単一民族・単一言語などイデオローグ色の強い軍制君主体制時代にあるようだ。染着いた古いドグマの残渣を振落すことに励みたい。
北上川を核とする陸奥国=現代東北こそが、「もうひとつ」のニッポンに向かう新思潮を根付かせるフイールドなのだから、その事を肝に銘じて忘れないようにしなければならない。
さて、今日は北上川の源流を探索する。
列島中でもランク4〜5の位置を保つ大河だから、その源流域も相当の高山であろうと。宛を付けていた。
つまり、自ら源流域現地を訪ねたことがない。
北上川の流域をウロウロしたことは何度かあるが、せいぜい盛岡どまりである。
ありていに言えば、盛岡は上流と中流の切替点くらいの流域位置だが・・・
そこから西に振って秋田県方面へ向かうか、逆方向の東に折れて三陸海岸を目ざすコース採りが多かった。
盛岡以北の上流部は、空白ゾーンとなっている。今となっては取り返しがつかないフォロウ遅れだが,致し方ない。近い未来にカヴァーするが、今は正直に告白するのみである。
とまあ、いささか脱線したが。
文献資料によれば、水源はざっと3つ4つある。と言う・・・いいんじゃない。多元・多様が身についている。
水源をざっと列挙する。
七時雨山<ななしぐれやま・標高1,060m>。西岳<標高1,018m>。御堂観音・弓弭泉<ゆはずのいずみ>など。諸説並存だ。
因みに「弓弭泉」は、現地ではあえて源泉と呼ぶらしいが。これは、河川管理に当る国交省現地事務所が唱えるところの北上川源流。源頼義・義家の歴史故事に因み命名されたとの伝説があると言う。
手元の地形図と道路地図を併用してこの3つの源流部を概観すると、相互に直線距離5〜8km内外の比較的狭い土地に集中している。一言で言えば、緩やかな弧状をなして横一線(=東西方向)に並んでいる。
結論と課題指摘を先にすれば、分水嶺岩手県の内の山岳地帯に存在する。
その源流域の山岳は、標高1千メートル台とあまり高くない。
ここで岩手県の内と記述した意味だが。分水嶺の南側(北上山地については触れない)が、岩手郡であり。反対側の北側は、二戸郡である。
『数字プラス戸』なる地名は、筆者のイメージではほとんど青森県域なのだが・・・、分水嶺は県境ゾーンではなかった。明治新政の嫌がらせ=地域割り悪政が垣間見えるようだ。
とにかく,岩手県は大きい。1県で全四国を凌ぐ面積があるらしい。
おっとどっこい、この分水嶺の山の低さが、北上川の持つ機能価値を増大させ。陸奥なる地域の一体性を担保したとも言える。陸奥時代1,100年超を維持させた主因と筆者は考えたい。
日本史の中では、陸奥国だけが、異様な広さを持ちながらこれまた異常とも思える長い期間に亘って、一国を維持して来た。
現行の地域行政単位で言えば、福島・宮城・岩手・青森の4県が纏まって一個にして一体の律令分国であった。
以下はいささか隘路だが、そもそも律令制度は古代中国からの直輸入?だから、ルールとしては整然として揺るぎがない。
定数原則と階梯制の組合せとなっており、地域内住民が増加すれば、里・郡・国と階段状にステップ・アップして、究極は国分けまで進む自動押出ルールだ。
だがしかし、何故か陸奥国だけは例外扱いされて基本ルールが適用されなかった。一時磐城・石背の2国が陸奥から分離して独立設置されたが、数年を経ずして元に戻されてしまった。
この陸奥の特殊事情を物語るエピソードがある。
東北の要=政治中心たる仙台の地元新聞は、河北新報である。そのタイトル&社名の由来は、「白河以北一山百文」なる差別的故事を踏まえて抜き文字されたとする説がある。
現代東北人の反骨精神を表出しているようで、たのもしい感じがする。
陸奥国と書いて「みちのく」とも詠む。「みちのく」の意味は、陸奥国の手前まで続いて来た道が、国内に入った途端に無くなると言う状況を示す。
これまた異常なほどの差別的物言いの極みだ。
曰く、日高見国・蝦夷国・まつろわぬ者の土地などとされ。格落ちに扱われて来た源流は,律令時代に既にあったと言わざるを得ない。つまり、陸奥だけが実に長いこと放置された。
さて、1千メートル台の分水嶺の連なりだが、いつの時代もヒトもモノも容易く超えて、南北の間を行き来した。陸奥人同志の間では、互いに仲睦まじく往き来したのであろう。
上述の3源流域の中で、最も東に位置する御堂観音・弓弭泉<岩手県岩手郡岩手町のうち>は、陸羽街道(別名・中山街道とも言う)を引継いだ国道4号にほど近い。そこを過ぎてやや北上すると国道内最高地点の十三本木峠<じゅうさんぼんぎとうげ・標高458m>付近で、分水嶺山脈帯を越える。
その国道を縫うようにして・時にクロスして走る近代の交通動脈がある。鉄路である。
奥中山峠は、旧・東北本線の最高地点であった。現在のIGRいわて銀河鉄道線おくなかやま駅付近である。
ヨコ文字入の夢のある鉄道運営会社だが、同社に経営が移管されたのは、東北新幹線・盛岡〜八戸間が延伸開業された2001年5月である。
奥中山峠と言えば、鉄道オタク憧れのメッカであった。
旧・国鉄SL運行時代、蒸気機関車3重連が。豪雪の最高地点を貨物列車を引いて、喘ぐように峠越えしてゆく勇壮果敢な男の姿。
その蒸気機関車の雄姿が見られなくなって、もう50年が過ぎようとしている。
最後は3源流域中、最も西に聳える七時雨山の南から西の裾を廻る道のハナシだ。
古くは、三代実録に見える流霞道である。この道路は、位置的に鹿角地方を通って津軽半島方面に向かうものと考えられる。
鹿角なる地名は、現・秋田県の東北辺に当る。有名な黒鉱を産出する鉱山地帯であり、江戸時代は御銅山道が。鹿角街道を引継ぐ国道282号・JR鹿角線・東北自動車道などが、拮抗して南から北へと向かう。結構な交通経路混雑ゾーンだ。
分水嶺であることを意識させない,道だらけの山岳ゾーン。陸奥を緩やかに繋いで来た秘訣と言うべきであろうか?