おもう川の記 No.43  阿武隈川の13

阿武隈川に因む人脈シリーズのうち、秋田氏の続編である。
三春・秋田藩が、幕末までの約220年超を過ごした。あの滝桜で知られる三春の地は、福島県を流れる大河=阿武隈川中流域にある。
この川の人脈シリーズでは、まず福島市が生んだ音楽家古関裕而を採上げ、次いで江戸期梁川の地に都合2度も出入りした松前氏<旧姓は蠣崎>を紹介した。
松前氏は、長いこと北海道を本拠の地とし。最北の護りに任じ・武人家系を自称したが、戦国時代の終末期から幕藩時代の初期にかけて巧妙に立回り(徳川家康の引きを得て)、大名格の旗本に転じ。幕末期にほんの瞬間風速だが、老中に列する出世をした。
実を言うと、この松前氏の中世を通じての主家は、三春藩主の先祖に当る秋田家であった。
江戸時代のごく短い期間、その昔主従関係にあったこの2家が、同じ阿武隈川中流域。同じ県域に属す近隣地に轡を並べた事に、不思議な因縁を感じる。
ただ、この2家門が、いつ頃主従の契りを結んだか?その始まりの時期を探ろうとすると、そこは辺境の地=津軽海峡を挟んだ北東北と蝦夷地たる北海道の空間域=であり、文献などで明らかにすることは難しい。
この国の過度に文献史料に傾いた歴史常識に立てば、列島北半の空間域はとてつもなく広大であり。その空間で運用される時間軸もまたシマグニ的短尺スケールでは把握困難である。
とまあ、前稿に引続く筆者の妄念と独走とも言えそうな、奇妙?な史観に立つ前置きは、このくらいにしておこう
三春に転ずる前の任地は、常陸宍戸<任期1602〜45>であったが、それ以前まで実に長い期間出羽国秋田に滞在した。日本海に面した秋田・土崎湊の地は、彼らにとって事実上の父祖伝来・本貫の地であったに違いない。
現姓の秋田氏に改めたのも、そのような背景を踏まえてであろう。因みに秋田氏を名乗ったのは、秋田実季<1557〜1660>。その時期は、太閤秀吉の天下統一の仕上事業とされる奥州仕置(1590)の直後。雄物川河口の土崎湊に本拠となる湊城を築いたときだ。
その土地は、古代出羽国の対蝦夷防衛拠点である秋田城があったとされる名跡でもある。
しかし、細かいことを言えば、この秋田姓については紆余曲折があった。
実季は、慶長7(1602)年常陸宍戸への転任を命ぜられた時、秋田の姓を捨てて一時伊駒姓を名乗った。しかし、ほぼ10年後に秋田城介<それまで自称に過ぎなかった>に補任されたことを以て旧姓に復している。
海賊大名は、父祖の地から移らされた。征夷大将軍徳川家康の差金だが、、、、
関東の地から名家=佐竹氏を追い出すためのトバッチリを喰らったものだ。
秋田実季の不運・憤懣は、推して知るべしである。
ここまで来ると、秋田姓になる前の本来の家名はどうか?との疑問が生じる。
家伝によれば、「あんどう」姓であった。
「あんどう」に字を当てれば、安藤または安東となる。
文字はどちらとも決めかねる。各地の地名を冠した〇〇安藤家なる家名もある。
大族で、九州の果てから北海道まで、ほぼ列島全域に散開している。
ルーツを遡れば、1人の祖先に集中することになるのか?或はそうでないのか?実はそれもよく判らない。一説に西海の最有力海人族である松浦氏と祖先共有の伝承もある・・・・
列島を廻る四海に漏れなく海岸があるように、列島全域・全周の海岸に海岸民族は居住した。
「あんどう」氏は、北東北に住む一平民でしかない存在だったようだ。ある時期に頭角を現し海人族集団によって担がれ、棟梁に座った一族と言えよう。
安藤は、安倍(あべ)と藤原の各1字を借りて合成した家名であるとする説もある。この場合の藤原だが、2系統が考えられる。
まず、藤原氏との繋がりを挙げたい。
律令制天皇成立の過程で、権力の中枢に居なおった藤原氏は、天照神話と伊勢神宮にまつわる神話創造に大きく関与し最大の功労者に躍り出た。おそらくその時に上古以来の家系伝承を破棄し、上古以来の名門宗家をねつ造し・衣替えを果たしたのであろう。
検定教科書的歴史観に留まりながらもこれくらいの推測は可能だが・・・筆者の妄念と独走は、更に加速される。
彼らの氏神春日神社が常陸鹿島神から勧請された事実や共通の先祖を持つ一族=中臣氏の音から那珂津・オミなる地名・官職との関係も指摘される。この事を踏まえれば、ねつ造された名族の真の出自は、常陸域に生息した海岸民族であることが伺える。
ここで安藤氏と同じ生息環境・世業を持ち・同列になる。
次に奥羽州藤原氏との関係を考える。
その場合、十三湊<国指定史跡。現・青森県五所川原市十三>の支配者が誰であったか?を、まず確定させる必要がある。
結論から述べよう、戦後数次に亘って発掘を積重ねた結果、平成2ケタの年代にやっと通説に至った。
十三湊は中世の計画構造を持つ港湾都市であること。十三湖(=後潟)と前潟に挟まれた嘴型砂州との間に形成された港の中の武士棟梁居館址と更に奥まった十三湖北岸の高台(=標高20m)に築かれた福島城跡<現・同市相内>は、安藤氏の居館であったことに落着いた。
考古学的成果と文献記録との整合が成立つことで、奥羽州藤原氏が滅ぼされる前後を通じて十三湊の支配者であり続けた安藤氏は、全盛期の奥羽州藤原氏の勢力を背景にして、“西の博多”に匹敵する<=1993.8.13朝日新聞>東地中海(=最も狭い海圏範囲として日本海を想定できる)有数の国際貿易都市を運営した事実が不動となる。
では、奥羽州藤原氏が、源頼朝の征討を受けて滅亡した後に、安藤氏はどうなったか?
鎌倉幕府の実権者=北条得宗家は、列島全域全周の海上支配権を握るべく画策した。
その頃「あんどう」氏は、北方世界<北東北〜北海道>の有力者として、蝦夷管領<かんれい>の称号を賜り、北条得宗家の配下に加わったとされる。
今日の紙数が尽きたので、後段はまた明日述べることと致したい。
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本稿で述べたことは、筆者の妄念と独走の反映である。
北方世界の日本史は、根底からみなおさるべきであるとする見解=国立歴史民俗博物館編・歴博フォーラム・「中世都市十三湊と安藤氏」 (1994新人物往来社刊)の226頁より部分引用<パネルディスカッション司会役石井進氏の談話>=を踏まえて、かなり大胆に加速したが、今後もそのつもりだ。
一方で、自説を展開する前提として、十三湊のその後の発掘成果を押えて置く必要があった。
現地ファウンダーたる五所川原教育委員会<編集・発行者>から十三湊ガイドブック<但し副題である。2012年3月刊>の提供を受けた。
その23頁に、安藤氏の要約記事があるので、以下に部分引用・紹介しておきたい
安藤氏は自らの先祖を前九年の役(1051〜62)で朝廷側の源頼義と戦った安倍貞任の末裔とし、[安倍〕を本姓としていた。東夷の酋長と呼ばれた安倍氏のように、自らをエミシ(中世には「エゾ」と呼ぶ)のリーダーであると強く主張したもの。津軽海峡を挟んだ北の世界を支配する正当性を誇示した特異な豪族とも言えるでしょう。
同教委のS職員から指導を賜りました。感謝を申し上げます。