もがみ川感走録 第20 かぶの4

もがみ川は、最上川である。
特産品シリーズのうち「カブ」の第4稿だが、前稿で採上げた”温海蕪”に並ぶ。高名な山形の特産品である「遠山蕪」を採上げる。
遠山とは、地名である。現在では米沢市編入されたが、米沢市の郊外である。
明君=上杉治憲に因む田園と言えば、多くの人が思い出すことであろう。
ダイコンは梓山(ずさやま)・カブは遠山(とおやま)と対句的に韻を踏む地名だが、前者が米沢市街地の東に対し・後者は西に位置しており。この面でもバランスを考えたのであろうか。
ところで、梓山だが。藩政時代は、格別知られた地でなかったようだ。
ところが、時代は明治。大きな国道に沿う地域に変ってしまう。
ダイコンと無関係、いささか脱線調だが、行きがかりなので、まずこちらの話題を片付けよう。
山形県南部の主要国道は、13号と113号の二つである。
まず国道113号の方だが、旧名=羽州街道に当る。
新設13号との競合区間だけを抜き出せば、上山〜金山峠<標高580m=域内最高地点>〜小坂峠〜福島県桑折<=阿武隈川の畔>と連なる。
その昔羽州街道は、江戸に向かう参勤交代路で、上杉・米澤藩を除く出羽国在所の8藩と蝦夷松前藩松前家が(=但し1度それも江戸よりの下向に際し)使用した。別名、上山七ヶ宿線ともいう。
梓山の近くを通るのが国道13号、明治20年代に新設された。
こっちの道路は、別名万世大路なる大時代的な呼名もあるが、なんと1881年の開通式に明治天皇が臨席して命名したそうだ。
道路と政治は、いつの時代にも生臭く・ふかい縁があるが、初代山形県三島通庸が提唱し、半ば強引に開通させている。
この明治に新設された道路のすぐ南を、既存道路である板谷街道が通っている。こっちは、米澤藩のみが参勤交代に使い、阿武隈川舟運を利用して江戸迴米する場合の陸送路でもあった。
薩摩藩士であった三島県令が、新設するまでも無い・さしたる必要度の乏しい地方主要道の開設に拘り、半ば強引に推進した背景には。幕末激動期に新政府に対して叛旗を掲げた奥羽諸藩に対して、善政を敷いていることを印象づけ。機会を捉えて天皇を露出させ名前と顔を売る必要があったのであろう。因みに、トンネルを多用する栗子峠<標高620m>越えは、建設当時国内最長の長大<隧道長=866m>さであったが、地域民念願の冬期を含む通年運用は実現しなかった。
さて、本題に戻ろう
たかが、ダイコンとカブだが。特定地域に集中特化して生産することに、どんな意味があっただろうか?
梓山(ずさやま)と遠山は、今風に言えば、野菜特区に指定されたわけだが、少人数による生産量増大の効果は著しかったようだ。
米澤藩老中たる莅戸大華(のぞきたいか。米澤藩主第9代上杉治憲の重臣。藩政改革に携わる、中心人物の1人)が著した「樹畜建議」の中に、”これで蕪菁戸々足り居り候”と大書されている。
この栽培種決定と特区の設定は、言わずと知れた米澤藩改革のエースにして藩財政を建直した中興の祖=上杉治憲<はるのり。在世1751〜1822 第9代藩主・在位1767〜85。隠居後=号・鷹山(ようざん)=も米澤に居て、後継藩主を後見し藩政の実権を握り続けた>の指図であった。
ご承知のとおり。すべての功業は、鷹山一人に集中されるのが米澤流である。そして改革成功の地もまた遠山”とワンパターンである。しかし、有名な話なので、略述紹介する。
遠山の百姓の老婆が、稲束の穫入れを何故か?独りでしていた。夕立が来そうな雲行きで、困っていたら。通りがかりの二人連れの武士が手伝った後、去ろうとした。お礼をどこに届けようか?と尋ねると、城の門番に伝えておこうとの出来過ぎ回答。
後日、お礼の餅を持参したら、件の武士は何と城主さま本人であった。腰が抜けるほどに驚いたが、帰りに銀5枚の褒美までくれたと言う。
中国古典籍か儒教典籍にあるような明君美談そのままだが、桃源郷のような置賜の地であれば、さもありそうな光景ではある。
しかも、証拠物件が市内宮坂考古館に所蔵展示されており、史実でないとまでは言いにくい。その老婆=ヒデヨが、嫁ぎ先の娘に宛てた手紙と褒美の銀で造って親族に配った記念品たる特製足袋の現物までが添えられている。からだ
何とも、念が入っていて、出来過ぎ臭もある・・・但し、土地の習俗に、[刈上げ餅〕と呼ばれるものがあり、収穫期に新米で搗いた餅を周囲に配る習わしがあったらしい
上杉鷹山は、かの聖徳太子と並べても見劣りしない聖人君子であると。多くの”オキタマびと”は、崇め奉っているようだ。
このような個人崇拝的史談が、列島に色濃い国民史観の1類型であると言っておこう。
忠臣蔵の悪役側に連なる名門藩にして。藩政史上ピーク時の藩士数6千人を抱えたまま、リストラしないため。この藩が貧困の極みにあることは、当時の江戸庶民にも知られていた。
治憲の養父に当る前藩主の重定は、人材豊富な一門一家を差し置いて、あえて他家<秋月氏・日向高鍋藩2.7万石>から後嗣を迎えた。
この点において、藩政改革の最初の契機を築いたのは重定<しげさだ。在世1720〜98。8代藩主・在位1746〜67。隠居の後、異例にも江戸移住せず、30年超米澤に留まり続けた>と言える。
もちろん彼の内心を推し量ることは難しいが、余りに膨大な規模に達した累積債務と一向に進展しない藩財政改革に危機感を感じ、あえて縁故係累の乏しい他家からの養子治憲を後継藩主に据えることで、最後のショック療法に打って出たものであろう。
それでも改善の実効を見ない場合は、隠居の身だが、知行権返上を幕府に申し出る覚悟を抱いていたとする説がある。
がしかし、大殿様本人身辺の浪費癖は、終身革まらなかったとも言われるから事態は複雑である。
治憲が35歳で隠居した時、先代重定は大殿さまと呼ばれ、米澤に居た。それで中殿さまになった鷹山だが。早々と家督を譲ったのは、後継第10代藩主治広=養父重定の実子に当る=本来の血筋への政権返還であり。先代存命中にそれを実現させてみせる意味があったとされる。これもまた儒教の教本のような処置である。
そろそろ筆を置くとして・・・・
藩政改革を遂げた明君治憲だが、江戸生まれにしても、生家の所在地は現・宮崎県である。
実はその宮崎と米澤との間を繋ぐ名物料理がある。
カブ類野菜を基幹食材として使う「冷や汁」なる名の料理だ。
とまあ、予告しておいて、この「冷や汁」論は、明日採上げましょう