おもう川の記 No.41  阿武隈川の11

阿武隈川に因んだ人を語るの続きである。
今日も前稿に引続き松前氏とその一統を語る。
前稿では、松前氏のうち幕末までに藩主を勤めた15人(=因みに、第15代藩主は第19世当主であったが)の中から、歴史に名を残した3人ほどを紹介した。
今日は、備忘録的補充記事に陥りがちであろうが。端っこ・片隅を疎かにしないことが肝要と考えるので、暫しお付合いねがいたい。
さて、改姓前の苗字=蠣崎(かきざき)だが、こっちの方もまた珍しい姓である。
文献などに当ると、越後国の大見・安田・柿崎氏などが浮び上がるし、新潟県内のJR信越本線柿崎駅がみえる。筆者は、頭書の蠣崎氏と無関係であると考えたい。
同名の越後柿崎氏は、守護大名上杉謙信の配下に入り・後に米澤に移った家系であるから、北海道とは全く無関係である。
蠣崎氏の初世・第2世当主に当る親子が、居城した<おそらく1457〜1514まで>とされる勝山館<かつやまだて。北海道檜山郡上ノ国町、国指定史跡>は、当時における和人居住区域の北限にあって、緊張を求められるリスキーな場所であったらしい。
これは多分に想像だが。
国境地帯は、言語・風俗・秩序慣習が異なるので、リスクまたは繁雑さが伴う。しかし、ボーダー・ビジネスなる経済用語が存在するくらい、おいしい事もまた転がっているゾーンである。
しかし、非人間的な・ヨコシマな姿勢で先住者に接すると、たちまち軍事的緊張なるワースト・リスクに転ずるものらしい。
当地蠣崎氏の祖先は、北東北から南部氏に圧迫されて津軽海峡を渡海した武家集団の棟梁であったとされる。
初世当主とされる蠣崎信広は、入婿。後に蠣崎姓を名乗った者にして、名家=新羅系武田氏の末裔とする伝本があるが、信ずるに足りない。
その昔 北東北で、南部氏や大浦氏<後に津軽と改姓した>と抗争する都合上、系図を操作して虚勢を張ったに過ぎないであろう。
ただ、子孫が秀吉や家康に謁見して大出世する糸口を掴む際に、そのお為ごかし=僭称家名がおおいに役立ったことであろう。
松前慶広<第5世当主・のちに幕藩期初代藩主>は、太閤や家康の面前に現れた。
最果ての地から遠路駆けつけて来て・配下に加えて欲しいなどと殊勝な口をきく・風体奇妙な異星人だが・輝かしい家歴を持つ日本人末裔であると抜かした。
2人の権力者は、ウハウハ喜んで取り立ててやった。
自らの名声と功業が、そんな地の果てにまで達していたかと、おおいに驚きかつ喜んだし、太閤も徳川も共に名家の出ではないから・拘りもまた無かったであろう。
しかも、北限の地から珍らしい産物を継続的に届けたいとの申出だ。願ってもないこと
生きたタカ・トドの皮・アシカの毛皮・クマの獣皮・昆布など、いずれも好奇心を煽る珍品揃いだ。
これぞボーダー・アトラクション。
家康から後にたやすく旗本超えの大名格をゲットできた最大の要因と言えよう。
とまあ、コメは全く穫れない地の異星人でも・魅力ある特産物を携えた巧言の士は、各地で歓待された。
京都方面の公家社会からも快く?迎えられた。松前の家の御曹司(複数)が、京都公家の娘たちを続々正室に迎えている。
惜しむらくは、魅力ある特産物の入手方法であった。
およそフェアー・トレードとは言いがたい、悪どく・おぞましいやり方で先住民から強奪していたとされる。
閑話休題
ホンワリの話題は、もう終りにして。余談コーナーへ
格別の話題でもないが、鳥のタカについて少々
鷹は、狩をする際に使う重要なファクター。
しかも鷹狩りは、鵜飼いと同じくらいにショウ的要素が大きい。
小さい時に活け捕りにして、鷹匠に預ける。
日頃から訓練をして、本番に備える。
生け捕りにする場所として、各地に”鷹巣”なる地名が点在する。
筆者がすぐに思い出す地は、新潟・秋田などだ。
活け捕りも大変だが、捕獲後の搬送がまた大変である。
餌を与えながら、京や江戸まで(=2つが到達地のすべてではない)、活きたまま送り届ける事がオオゴトであった。生き物だから、不測の事態もあるが、重大な責任問題に発展したらしい。
もちろんその羽にも価値があった。
おタカさまの搬送行列は、大名行列よりも権威があったらしい。
紀州産ミカンの行列も畏れられたらしいが、甲乙つけがたい
京に送ると書いてあるのは「?」と想われたかもしれないが、間違いではない。
仮に鷹狩りを武家のやる事・将軍に限定など。としたら、それはブゥである。
いつの時代でも、途方も無い費用がかかるが、権力者のみがコスト度外視により挙行できた。
本来の権力者は天皇である。
それが証拠に、京の公家・鷹司家がある。