おもう川の記 No.40 阿武隈川の10

阿武隈川に因む人物を語るの第2稿である。
2014 年10月から書き始めた阿武隈川も、3ヵ月めに入る。
思い起こせば、漠然と遠見に眺めた事例を含めても、この川との付合いは僅か5回ほどの少なさ。
取材のための現地訪問も考えたが、10月に稿を起こしており、寒冷期・遠隔の制約もあり、叶わなかった。
福島の地に住んだ体験でもあれば、もう少し気の利いた・迫る話題も披露できたのにと患う。
足元の図書館で、「図説福島県史」をざっと一瞥など。話題探しのための苦肉の策。
川の探訪がテーマだが、舟運が主軸だから、関心が向かう期間は近世以降となる。
1600年の関ヶ原以降に、ほぼ限定されがちだ。
先ほどの”図説史”は、写真版が多く・文字説明が少ない、家庭常備ヴァージョンと見受けた。
5枚ほどの全県略図を掲げ、幕藩初期から幕末までの大名配置を5期毎にプロットしてあった。
一覧できる工夫の妙と、簡略さに感心した。
幕政265年間を通じて、1ヵ所に定住できた大名家はごく少なく=諸大名の転勤・配置換えは、譜代・外様・直参・旗本を問わず、それなりに激しい事が判った。
さて、今日の登場人物は、”図説史”中4枚め領主配置図に登場する松前氏・そのご一統サマである。
お判りになった読者もおられよう。この珍しい姓の所在地は、北海道こそ相応しい。なぜ?フクシマくんだりに名を残すか?
実は筆者の着眼も、そこに集中した。
よって、今日はその辺について、少し抉る。
さて、松前なる地名ならびに苗字の由来である。現代では疑う余地の無い・レッキとした名跡ながら、その由来となると。
アイヌ地名に拠るとか?両大族=松平姓と前田姓とから抽出・合体したとか?いささか鼻白む感無しとしない。
辺境?<失礼=和製の華夷思想に与しない立場にして。中央や僻地のない地球儀利用推奨人であるが、文学的虚構表現なのでこのままとします>=北海道&東北が舞台なので、検定教科書準拠型歴史観が培った常識は通用しない。
よって以下の記述には、多々なる常識または歴史標準からの例外措置が多発する。
予めご準備ねがいたい・・・・
松前に改姓したのは、蠣崎慶広<かきざきよしひろ>。慶長4(1599)年とされる。
なお、この男は、太閤秀吉に会うべく遠路を厭わず肥前名護屋に参向(1593)したり、秀吉没後すぐ(1599)に徳川家康に謁見するなど。辺境の地に居ながら、目先鋭く身軽に立ち回った才人であったらしい。
首尾よく幕藩下初代藩主と呼ぶべきだが、厳密に言えば、その当時の松前家は、いわゆる大名ではなく・大名格であった。因みに改姓後の松前慶広は、家系上は第5世当主とされる。
後述するとおり幕末時点では、大名格を脱しズバリ大名であった。だからよいだろう?と言えるかどうかは別にして、例外の数々を逐一挙げる事としよう。
上掲”図説史”(=1808年が作成基準時点)の記載も梁川<陸奥国。現・福島県伊達市梁川>9千石・松前章広<あきひろ第10代藩主・第14世当主>と書かれている。
この時=梁川在藩中の約14年間(文化4=1807〜1821=文政4)は、交代寄合席旗本つまり小名<=幕府定法の大名基準である1万石に達しないため>とされた。
これは即ち、蝦夷地在藩中は、その地が米の産地でなく太閤検地以来の公式基準に拠る石高制が適用できず。内地異動後は、厳密に適用されたまでのことと解される。
例外扱いの無高大名格の家は、徳川幕政時代を通じて2家あったらしい。
1つ目は、当然に松前家。
上述のとおり梁川移動在藩中は大名格扱いを停止された。この14年間は、松前家にとって屈辱時代であったらしく。猛烈に蝦夷地復領のための誓願活動を展開し、時の老中首座たる水野某に対して賄賂爆弾を捩じ込んだのであった。
そして文政4(1821)年に、突然さしたる理由も無く・蝦夷地復領を勝取った。
再びコメの穫れない土地に戻り、無高扱いの大名格を回復した。
江戸時代約265年を通じて松前藩は、梁川移動を2度も体験した。最初の14年間も・再度の帰らざる約13年間も、ともに幕命による蝦夷地藩領の上知であった。
北限の国境地帯に位置する防衛・外交上の特殊な空間条件が招いたシャトル・ランであった。
2度目(=安静2(1855)年〜幕末まで)は、4万石<=領地は陸奥国梁川・出羽国東根&尾花沢>の正式大名に任じた。この辺に北限のハンディを盾に巧妙に立回る才覚の発露が偲ばれる・・・
残る1家は、これも大名でないので藩<=定法どおりに城無し・陣屋住まい>と呼ぶのをためらうが、世上言うところの下野・喜連川藩4,500石の足利氏である。
足利家は、あらゆるモノゴトの始まりと言うべき関ヶ原戦にも従軍しなかった。
にもかかわらず、何故か徳川家康は別扱いした。1万石に遥かに及ばない微禄ながら、徳川幕府からは明治期まで大名格として特に厚遇された。
それも公式の無高扱いとして、『国勝手(=参勤交代・妻子江戸詰め義務の免除)』や『諸役(幕命による普請手伝い)・免除』の特例を適用された。
しかし、江戸城に定期登城して自主的に参勤交代をつとめたので、城内での詰め所として初めのうち”大廊下”に詰めるよう申し渡されたらしい。因みに、大廊下詰めは、前田<百万石=外様>や越前松平<御家門=譜代>と同じ、つまり並みいる大名約250家の中の最上級位置であった。
喜連川・足利氏が、別扱いされた背景としては、前室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏に連なる名門一族だったことにあるとされる。
失礼ながら、家格において、前者と後者とでは、スッポンと月くらいの開きがある。蝦夷の殿様の出自は、鎌倉時代以来の蝦夷管領=安藤家の一属将でしかなく・1593年肥前名護屋に参向して秀吉配下に加えられた時に初めて独立の将星に大飛躍したニュウスターであった。因みに松前家の江戸城内詰め位置は、最少石高クラス大名が詰める”柳の間”であった。
巧言に秀で・才覚発揮をよく弁えた一族であったか・・・
例外はまだある。
上述のとおり、1855大名格から脱して大名になった=新進にわか大名が、ナナント幕閣に列せられた。
家系第17世当主・第13代藩主の崇広(たかひろ)が、1863まず寺社奉行に、次いで陸海軍総奉行<1865就任>に。そして同年中に老中へと異例抜擢された。
当時松前崇広の西洋通は、有名であったらしいが、兎に角時代は、沸騰の極みであった。
老中在任期間は、極めて短かった。年のうちに免職・国元謹慎を命ぜられ、崇広は帰国した。
時の幕府は、下関戦争(=長州藩領4ヶ国一時占領)の終戦処理に窮していた。
戦勝3ヶ国は、神戸開港を要求して港外に軍艦を進出させていた。
京都近辺に外国人が滞在することを嫌い・勅許は遂に出されないままで時間のみ推移した。
時の老中である阿部正外陸奥白河藩主・譜代10万石>と松前崇広は、無勅許開港に踏み切った。
朝廷は間もなく2老中の官位剥奪・改易謹慎の勅命を発した。幕府はこれをうけて免職・国元謹慎に処した。