おもう川の記 No.39 阿武隈川の9

今日は、阿武隈川に因んだ人を思い出すこととしたい。
世に文芸なる辞がある。少し耳新しい文字面だが、深刻に受けとめる程のことはない。
平たく言えば、文学一般のことだ。では何故”文学”と言わず、「文芸」なる辞を使うかと言えば。
文学の中に使われる”学”なる文字が、堅苦しく窮屈なので、避けて文芸を使うらしい。
その点では、今日のテーマである「音楽」の方は同じ『がく』音でも「楽の辞」が、使えて幸いだ。文楽になってしまうため「楽の辞」が使えなかった文学の方は、その点で不幸だった?
もうお判りであろう。
阿武隈川に因む人とは、音楽家である。
その名を古関裕而と言う。
福島市名誉市民第1号に推され、1988年11月同市入江町に記念館が開設された。
故人<1989逝去〜1909生まれ>となって、もう四半世紀が経過する。
意外と想われるかもしれないが、JR福島駅のホームで彼の代表作を聴くことができる。
まず、在来線ホームに「高原列車は行く」が流れる。1954公開、詞:丘灯至夫 歌:岡本敦郎
「栄光は君に輝く」=1948公開曲を、新幹線ホームで発車メロディーに使っている。
後者の曲は、言わば行進曲である。彼の初期のヒット作として有名だが、ここでは誤解を避けるべく・型どおり説明しておく。
夏の高校野球全国大会において入場行進曲として使われた。言わば、我が国を代表する行進曲なのだが、ある意味困った?ことに、この曲には、出来過ぎのエピソードが2つも付纏う。
第1は、その曲を最初に歌った歌手との出逢いである。
名前を伊藤久男と言う。1910本宮市生まれ<1983逝去>だから、同郷人にして・同級生らしく世代を共有する男2人による、生涯の付合いであったらしい。
第2は、1977年の奇跡である。
この年は「栄光は君に輝く」制定からちょうど30年に当るため。作曲を担当した古関裕而は、甲子園の開会式に招待された。
大会旗の掲揚と涌き上る大合唱に、さぞ感激したことであろう。これにて一件落着と生きたいところだが、そこに思いもかけないハプニングが起った。
なんと、この大会で彼の母校である福島商業高校が勝った。それも創部以来の初勝利。会場に流れる勝利校の校歌は、古関裕而作曲と言うオマケがついていた。
商業高校を卒業した大音楽家とは、奇妙な組合せなのだが、事実は異なもの。
彼は生家が呉服屋だから、家業を継ぐべくソロバン系に進んだ。しかし、実家は彼の在学中に倒産している。
彼の音楽の才能は、ほぼ独学であるとされる。少年期から常にハーモニカを携帯するクセがあったそうだが、小さい頃からクラッシック曲を作曲したと言う。
天性として備わる音楽の才があったと言うべきだろう。
早稲田・慶応両大学の応援歌、阪神・巨人・中日などの野球応援歌、劇作・ドラマ・映画の音楽監督NHKスポーツショウ行進曲<1949公開 スポーツ中継開始テーマ>、日曜名作座のオープニングテーマ曲<NHKラジオ1970>などなど、まだあるが、歌謡曲などは割愛する
ところで伊藤久男のことだが、こっちも型どおり説明しておく。
彼の生家は、福島県きっての旧家である。因みに実父が県議・兄が衆議院議員であった。
ピアニスト志望の本心を隠して、東京農大に入学・上京。後に古関裕而と出逢い、密かに農大を中退して帝国音楽学校に進んだ。1933叙情性豊かなバリトン歌唱力を活かして歌手デビュウ。
やがて戦時歌謡「暁に祈る」(詞:野村俊夫 曲:古関裕而)がヒット<1940映画化・スクリーンにも登場>し、伊藤もまた歌謡曲の世界で身を立てる事に肚を決めた。
古関・伊藤のコンビは、戦後のラジオ歌謡でおおいに活躍した。
伊藤が歌った代表曲は、「イヨマンテの夜」(1949 詞:菊田一夫 曲:古関裕而)、「たそがれの夢」(1948 詞:西沢爽 曲:田村しげる)の2つに絞っておく。
ここで登場する作詞の菊田一夫(1908〜73 劇作家)だが、戦後の一時代を風靡したNHKラジオドラマ「君の名は」(1952公開)の脚本担当である。
菊田もまた、古関裕而交友録の主要構成員である。古関・菊田のコンビで作られたヒット作も羅列しておきたいが、紙数の無駄くらい多数なので、やめておく。
でも例外は1つくらいあるもの・・・「君の名は」速やかに松竹が映画化し、佐田啓二岸恵子の主演で第3部まで引っ張るほど興行的に成功した。
その主題歌のひとつに「黒百合の歌」(1953 詞:菊田一夫 曲:古関裕而 歌:織井茂子)があるが、「イヨマンテの夜」に続くアイヌ歌謡の第2弾と言えないこともない。歌手を男から女に替えて2匹めのウナギを狙った観があるが、首尾は不明である。
ただ、この2つの歌謡曲に出てくる歌詞がもたらすアイヌ観(イヨマンテをクマ祭りと充てる例など)は、現在の解釈からすればかなり修正さるべきであると言っておこう。
最後にエゾクロユリのことを簡単に触れる。
北海道・カムチャッカに自生する寒冷地植物、本州では高山植物の宝庫である白山高原域で見る事ができる。石川県が郷土の花に指定している。
しかし、この花が男女の恋愛にどう絡むかは、よく判らない。文学的 否、文芸的創作かもしれない。
古関裕而と言えば、浮かぶものがある。
吾が少年時代、9人家族の暮らしであったが、夏の昼 食事は、母と二人きりであった。その時いつもラジオから流れるBGMは、「ひるのいこい」(1970 NHKオープニングテーマ曲)*文末の注を参照されたい*であった。
この曲は、今でも耳にすることがあるが、何も無かった・遠い昔の・平和に繋がる、心に沁みる良い曲である。
もう1つある。吾が現職時代のほぼ半分の20年間は、東京暮らしであった。更にそのうちの約10年が、世田谷暮らしであった。
時に夜の散歩をすることも必要な時代相であったが、ある晩、小田急線沿いの駅付近で見たごく普通の平屋住居の前を通り過ぎた。何となく表札が目に入って来た。
古関裕而と書いてあった。ただそれだけのことである。
さて、筆を措くとして、菊田一夫阿武隈川とは縁が無いなあと気が病んだ。
だが、待てよ。君の名はの舞台は数寄屋橋。 
橋と言えば、川の添え物であったなあ・・・

   *注* 
この注は、翌朝=12月29日に追加しました。
一夜過ごし目覚めて想うに、本文中の少年時代にして・データ記事が1970年公開では、既に就職し・とうに20歳を過ぎているぞと。愕然とした。
よって、次のとおりに訂正する。
「ひるのいこい」は、ラジオでも有数の長寿番組とか。このタイトルでの放送開始は、1952年11月とある。但し、前進番組があって、タイトルが『農家のいこい』・1950年放送開始とある。
そんなわけでウィキペディアをもって記述した1970公開とした本文記事は、錯誤としてこれを取消す。
ところで、その都度図書館なりに足を運ばずとも、多くの情報源にアクセスできることが容易となったIT時代の利器も、使う人と作る人との間=人と人の間のありよう=そのままの落とし穴になりえるものらしい。
テーマ曲の作者が、古関裕而であることは、著者の心象からして間違いないものと考えたい。
その作曲・公開の時期もまた1950年放送開始の直前であると想いたい