もがみ川感走録 第15 最上川舟唄の11

もがみ川は、最上川である。
先月の下旬、久しぶりに村上から酒田まで行った。
1年のうちに何度も訪れるか・通過している土地だ。格別の感慨も無いのだが・・・
今回は、意想外の収穫があった。
それも3つもである。まず、本稿のテーマに沿った収穫から紹介しよう
酒田・山居島に往き、小鵜飼舟を見た。
2つめは、その山居島からの眺め、二つの神の山を瞼におさめたことである。
最後は、村上・瀬波と酒田の両・日和山で、それぞれ方角石を観察したことだ。
大袈裟に言えば、二つの神の山をじっくりと、同時に仰いだのは始めてのように記憶する。
山居島の地上に居て、北の鳥海山と南の月山とを一度に見ることは難しいかもしれない。
山居倉庫の屋根の上に登れれば、確実に一度のスキャン・ビュウに収まることであろう。
とまあ、貧しく拙いボキャブラリーで、長々と弁ずるくらいに、この日は快晴であった。
この時期、日本海側で晴れに遭遇することは、真に儲け物であるし。
この日のように、ほぼ終日雲もなく。二つの神の山を移動先のあちこちで見上げることが出来たのは、買わない宝くじに当たったようなものだった。
薄青色の北国の空をバックに、白い峰の塊りは、二つとも凛と輝いて聳えていた。
ところで、最上川と北の鳥海山とが、どう関係するか?考えてみた。
すぐには浮かばない。
しかし、いつか採上げてみたいテーマではある。
地理。地形的に。両者は相視・相見合である。よって、何か互いを結ぶテーマが見つかる筈である。
その点、南の月山となれば、最上川との縁は極めて深い。
こっちの方は近い将来、テーマとして採上げるつもりだ。
出羽三山信仰の参詣者が、小鵜飼舟に集団乗船することもあったらしい。
乗合馬車も鉄道も無い江戸時代、信心深い信徒達は、遠路を自らの足で踏みしめながら、遠く北関東から、三山登頂して結界の地に立ってみたいと、固い意志を燃やしてはるばるやって来たのである。
さて、方角石だが。ことさら説明を要しないが、型どおり述べておく。
日和山の見晴台に据付けられた方位盤である。性格上、不動であることが絶対要件であり、岩石で造られ・上面に子から亥までの十二支を示す文字が、多く陰刻されている。
太い矢印もある、こっちは多く陽刻だ。指し示す方向が、真北である。
因みに、子午線(しごせん)なる言葉がある。子<訓読みが”ネ”・音読みは”し”>の示す方向は北、午<訓読みが”ウマ”・音読みは”ご”>は南を示す。
地球の南・北極を通る想定直線=経線のことである。
と言う具合に、海と星座・天文学と測量は昔から縁が深いようだ。
北前船の船頭が、毎日早朝 日和山の方角石の前に立ち。その日出帆するか否かを決断する。
それが、彼の最大の任務であり。自らと乗組員の生命や積荷の安全に直結する重大な決定を日々行う場所が、そこであった。
帆船走行の時代には、現代から想像・理解が難しい課題もまたあったのだ。
陸上つまり港内にある宿に泊まる。それは、ほぼ船頭たる者の特権であり。
他の乗組員は、常に船内に寝泊まりして船体と積荷の防衛に当る。それが相互の役割分担であった。
さて、小鵜飼舟だ。
脇にある説明板によれば、復元模型だそうだが。実物大の迫力は確かなものがあった。
舳からトモ(船尾)までの長さの割に、船腹は狭いと感じた。
これこそ最上川・小鵜飼舟であると実感した。
ただ、防護索の中に鎮座していて近寄れない・しかも現物の側に計測スケールが置かれてないので、吾が身に引き比べて、大きさを現実に感じることができなかった。
最も関心を持って臨んだ「とも櫂<がい>」が、船上に置かれていたが、鉄輪のところで分離していて。握り側はあっても、水面下に潜る側のパートは、見当たらなかった。
よって、長い間の疑問解決は、先延ばしとなった。
実によい旅であった。ご案内を頂いた朱鷺先杖夫人に感謝である。酒田の日和山は、日本一の風光を誇る名勝地であるとつくづく想う。
閑話休題
港に日和山はセットのうちである。
多くの御仁は、まだあるだろうと言って、ニヤリとする。
世上に聞こえる「みなと・ミナトに女あり」だろうが。
上述したとおり、上陸出来るのは船頭オンリーであったから。決まり文句の方も10分の1くらいの真実と言えよう。
今回の調査行は、方角石の実見にあったから。他事は語らないが・・・多くの日和山のどこかに腰巻岩なるものがあるらしい。
腰巻の持主が意図するところは、朝だけでも水平線の彼方にチラと黒い雲を出して欲しい との願掛けらしい。
北前船の港内滞船が1日伸びると、それに比例して彼女の売上げ?もまた伸びる。
とまあ、相互のビジネスは、そんな関連関係にあったらしい。
方角石は、岩だけに言わんが・・・日和山の上空は、暗雲棚引く戦場であるらしい?