おもう川の記 No.36 阿武隈川の6

今日は、阿武隈川の舟運が開かれた経緯を述べることとしたい。
前稿では、阿武隈川流域の伊達郡に生を享けながら、米澤→岩出山→仙台と、意図せぬ?遍歴の生涯を過ごした伊達政宗の略歴を採上げた。
実は今日の話題も、米澤が絡むのである。
明治以降の教科書準拠・迅速再生型の時空センスに拘る必要は全くないのだが、阿武隈川山形県米沢市とは、現代の区分では異なるブロックに配属される。
この2者は、本来同じゾーン・ブロックに分類されるべき類縁地圏同志なのだ。
さて、本題である。
信夫・伊達の地域の阿武隈川に舟運が始まったのは、江戸時代も初期の寛文(1661〜72)年間であると言う。
もちろん、河口の荒浜から同じ仙台藩領の水沢・沼上河岸までの間=下流域に限れば、もっと早い時期に舟運が開かれていた。
寛文4(1664)年、事は突然に米澤から始まった。
この年、第3代藩主 上杉綱勝が急死した。無嗣子であったから、幕府の定法どおり改易処分は必至であった。
ところが、そうはならなかった。正室の実父に当る会津藩主の保科正之が奔走してくれた。
彼は、知る人ぞ知る幕府中枢の実力者であったから、八方手を尽して。格別の扱いとしての末期養子を認めさせ、上杉・米澤藩は取潰しを免れることが出来た。
しかし、石高半知の処置により、信達両郡領の15万石が幕府領とされ、足元の置賜領15万石のみが残される事態となった。
ここからがいよいよ本論である。
幕府は、信達両郡からの産米15万石を、この時期江戸に運ぼうと考えた。
幕府領から年貢貢納されるコメのことを御城米と言う。吾が師の言によれば、年貢米は戦闘に備えて、殿の居る本城に保蔵される。よって、そう呼ぶべきなのだそうだ。
小さい声で言おう、おそらく御上米と書いてもよい筈である。
信達産御城米を江戸まで廻漕したいと名乗りを上げる請負人が現れた。
その江戸商人渡辺友以は、阿武隈川の開鑿を速やかに行ない。水沢・沼上の河岸から上流の福島まで舟路を開設した。
誰かがそう考えただけで、モノゴトが実現する。そんな平和な環境に、商い人はもう慣れていたかもしれない。
コメは毎年穫れるから、早く手を挙げて利権を確保することが、特権商人として生き残りかつ手を拡げるチャンスであったのだ。
信達産御城米はこのようにして、たやすく?阿武隈川が太平洋に注ぐ荒浜の河口まで到達することとなった。
そこから舟運は、川から海へとシステム切替される必要があった。
寛文10(1670)年、今度は幕府が動いた。
河村瑞軒が、幕府の命令を受けて。阿武隈川と太平洋に派遣された。
阿武隈川の舟路は、この時彼によって本格的に整備されたと言うが、実際どんな普請工事が行われたかは全く判ってない。
太平洋航路の方は、荒浜〜江戸・間だが。既に存在した港湾や沿岸に関する情報を網羅的に収集・整理し、取捨選択のうえ情報公開した。
同時に海難事故の処理に関するルールを起草し、海難事故の処理に地元役所を必らず関与させることとし・その関与方法を細かく規定し・幕府から通達した。
以上が、海運史上有名な河村瑞軒による東廻り航路の整備である。
翌・寛文11(1671)年信達産の御城米は、そのルートに沿って運ばれ、江戸に届いた。
更に翌・寛文12(1672)年、海上航路整備事業は、荒浜より更に遠い津軽海峡を経由して出羽国の酒田港まで伸ばされ。
併せて、同じ酒田から南下して日本海を下関まで、更にそこから瀬戸内海に入り、大阪〜江戸までの太平洋航路にも適用された。こちらを河村瑞軒による西廻り航路の整備と呼ぶ。
これでもって、列島周回の海運環境が格段に向上した。
めでたし・目出度し。拠って一件落着・・・・とならないのが、本稿の手筈である。
海を往く御城米輸送のルールは、もう辞めてくれと言うくらい詳細かつ厳密である。新造船を使えとか・乗組員数が不足のときは出帆するなとか、まさに微に入り細である。
しかも幕府から頂く運送費は、公定かつ固定だから。運送業者のホンネは、請負回避にあった。しかしそれを貫くのは則ち危ない。どこで思わぬ嫌がらせをされることか。それを畏れて表向き素知らぬ顔で競って入札した。
御城米輸送を担うことで生じた欠損は、廻り回って民間荷主からの受託輸送分でもって穴埋めされた。ここに廻り回ってと書く意味は、御城米積載船に他の荷物を混載すること自体禁止されていたからだ。
以上のことは、残された海運資料から容易に読み解かれ、報告されている。
ルール遵守はコスト倒れに直結する。それが昔からの業界常識でもある。
海を往く御城米積載船のトモ<船尾>には、白地に赤い丸印の旗を掲げる規則もあった。
その旗の白地に、コメが産した暦年・地名・代官の氏名を記入しなければならなかった。
これが、日章旗の起源であるとの説がある。
さて、河村瑞軒が進めた海運情報の公開だ。これが一定の割合で海難事故を防止することに役立ったことはほぼ間違いない。
しかし、そのことをデータをもって説明することは困難だし、自然の脅威そのものを殺ぐ手だてが無い以上立証もまた難しい。
だがしかし、荷主は安心して荷物を寄託するようになった。
そして、本格的な海運時代が幕開くこととなった。
そのことは、河村瑞軒の業績であるといってもあながち間違いではない。
海難事故の事後処理・報告体制が確立したことにより、実際の海難と偽装された海難事故との差異が浮き彫りになる新事態が出現し・その体制は確実に定着した。
そのことが、荷主に安心を与え・海運の盛況をもたらした。
海賊は、正業である海運事業に回帰するようになった。
結果として、海難事故は減少することとなった。
海賊行為そのものが目に見えて減少する事態となるには、寛文(1661〜72)年間ではいささか短か過ぎる。
だがしかし、その原因となる状態を意図せず?に招いたのは、他ならぬ保科正之である。
彼は、寛文12年に逝去したから、そのことを知りえたのは泉下であった。
上杉・米澤藩取潰しを回避したことが、列島海運を盛況させ、廻り回って北前船の躍進する時代を招き寄せる事態となろうとは・・・
歴史とは、瓢箪から駒が出るような事態の連続であるらしい