もがみ川感走録 第14 最上川舟唄の10

もがみ川は、最上川である。
最上川舟唄に出てくる小鵜飼船を論じて、今日で遂に2ケタに達した。
さて、小鵜飼船が最上川に登場した経緯については、既に述べたことの繰返しだが。かなり遅く江戸時代も半ば頃=宝暦年間(1751〜63)のことであった。
小鵜飼船は、阿武隈川から導入されたが。最上川阿武隈川とでは、川としての性格がかなり異なるため。最上川の小鵜飼船は、その後独自の工夫による改良つまり船体の改造が行われ。
他では見られない、最上川独自のスタイルが形成された。
そのことも既に書いたので、ここで繰返さないが。ポイントだけを再言すれば。
最上川は格別に急流であること・異様に1回の航海(往復日数)が長いことなどが、背景となって産み出された独自の船形・機能装備の選択であったと言えよう。
最上川小鵜飼船の生みの父は、米澤藩士の今成平兵衛である。
彼は、藩命を受けて、藩の御手船(藩所有の専用輸送船をいう)を製作した。
彼が、その任を委ねられた理由は、浜役として荒浜に滞在していたからである。
因みに。浜役とは、藩の米を江戸に輸送する役職のこと
浜役の詰める役所=藩庁は、阿武隈川の河口である荒浜<現・宮城県岩沼市>にあった。
彼は、役目がら米澤藩で、一番米の輸送に詳しく・川船を見慣れ・船頭衆との交渉にも長けた。舟運の第一人者と目されていたからである。
生みの父がいるからには、当然に産みの母がいる筈となる。
一晩寝てみたら、なんとか見つかった。
こちらは、米澤藩出入りの御用商人たる西村久左衛門である。女ではない
彼が行なったことは、最上川小鵜飼船が活躍する舞台つまりフィールドを造ったことである。
これまでも何度も述べてきたことだが。太古から最上川は、川水だけを流し数万年も経過しながら。船を浮かべて人や荷物を行き来させることを、江戸時代まで拒んできた。
小鵜飼船が活躍するための水域を最上川の川面にしつらえた。それが西村であった。
農業に例えれば、種まき親爺が今成・母なる大地に畑を拓いたのが西村爺さんとなる。
さて、行きがかり上、西村の業績を述べるわけだが。筆者は、まず地元たる白鷹町史・次に最大ユーザー米沢市史・最後の守役?山形県史を、型どおり読んだ。
米澤・置賜の物資が、水路だけを経由してダイレクトに、江戸や大阪の地に運び込まれる新時代を拓く大事業である。著述ボリュウムと言い、その精密さと言い、意想外の大作である。
ここでは、紙数の都合もあり。紹介しない。
五百川渓谷(いもがわ)は、米澤に達することを阻む最上川の中の最も上流に位置する自然障害だが。船頭衆は、黒滝の大難所と詠んで恐れた。
西村久左衛門は、この大難所に横たわる天然の岩礁を削って通船することを果たしたわけだが。その普請願いを提出したのが元禄5(1692)年6月、工事終了が翌6年中、総事業費1万6千両であったと言われる。
当時の常識で、個人の事業として最上川舟運に関連する各方面の了解を取付ける必要があった。最も強力な利害関係先は、幕府領を管轄する現地駐在代官とバックにいる江戸幕閣であったようだ。
工事成って元禄7(1692)年から、米澤藩産米を江戸に廻米する事業を請負った。彼の自費支出持出し工事へと踏出した真の狙いは、そこにあった。
さて、彼の属性だが、本業は京都在住の青苧商人であった。青苧<あおそ>とは、人類最古の植物繊維たる麻織物の原料である。
紅花と並ぶ出羽・会津地方の特産物だが、製品名が小千谷縮・奈良晒(サラシ)・越後上布などと言われる。言わば当時の高級衣料の主原料であった。
また、青苧から作る麻の着物はカラムシ織とも呼ばれる。
金達寿は著書で、鳥居竜蔵の「武蔵野及其周囲」を引用して、国名=武蔵の語源は、古代朝鮮語のモシシ(=苧の種子、苧をカラモシと詠み、カラは韓の字を充てる)から来たと書いている。
現代韓国の風俗に当て嵌めると、どんなイメージであろうか?これほど近くて・遠い隣国も無いとする見解もあるが。韓流ドラマのTVチャンネル占拠と溢出は、それなりに列島民の支持を得ていることの反映であろう。
そのドラマの中で見る喪服が、どうもカラムシ織のイメージに近いかもしれない。帯がワラ縄らしいから、相当に古俗を尊重しているようだ。
しかも、喪服は大罪人級の囚人服に通ずるらしい。
たしかに死罪・遠島に処せられる犯罪人ですら白い囚人服だから、喪服の土色はどうしたことだろうか?
わざわざ黄土を以て染めるのだと言う。何故か?と言えば、
かの儒教を重んずる礼の国で。年長者の親に死なれること自体が、大罪の最たるものらしい。
さて、大難所「黒滝」を拓いた西村だが、宝永7(1710)年資金繰りに窮した。
米澤藩は、彼が所有する最上川舟運関連資産を没収し。廻米事業を藩の直営に切換えた。
それから約50年が経過して、最上川小鵜飼船の登場となった次第である。
その背景は、簡単である。
宝暦7(1757)年に大洪水が起り、大難所「黒滝」をヒラタブネ<漢字1文字=扁が舟・旁は帯>が通過できなくなったのである。
このこともまた、現代人には判りにくそうなので。くどくどしく脱線調で述べておこう。
時あたかもノーヴェル賞・授賞式シーズンだが。ノーヴェルの大発明、ダイナマイトは19世紀の事である。ダイナマイトの主基材たるニトログリセリンの合成は、1846年イタリアである。
つまり、元禄期の列島には、川の中で扱える強力な爆発物が無かった。
では、どうやって岩盤を削ったか?
いささか危ない推測だが。
川を堰止めて、顕れた岩の上で火を燃やして加熱する・しかる後水を注ぐと割れる。その繰返しであったらしい。
そのような手作り・手作業であったから、100年保たなかった。
宝暦7(1757)年の大洪水で、機能を失った。
となれば、最上川小鵜飼船の真の産みの母は、川を育てる大地の母なるガイアであるかも・・・