おもう川の記 No.35 阿武隈川の5

阿武隈川の続きだが、この流域に。日本列島史の謎が、多く残ることに気がつく。
○ 阿武隈川が仙台平野<陸地>と仙台湾<水路>=2つの異なる地理・地勢たる連結媒体を介して、北にある北上川と一体を形成する地圏であるとの認識は、共有されているか?
○ 古代大和朝廷から化外の地とされた奥羽=現・東北地域と王地との地政学上の分界が何故白河・勿来の両関に置かれたのか?・・・未だ解明されてない謎である。
では本来置かれるべき分界を想定してみよう。
史実による知識に拘らず、地形と地勢に立って、天然要害を探してみる。
あった。
源頼朝が起こした奥州征伐の軍に備えて奥州藤原氏防衛軍は、阿武隈川河口と阿武隈高地北端部<現・福島県国見町 厚樫山=あつかしやま>とを結ぶ線上に防御陣を敷いた。
こっちの方が、白河・勿来の関より、分界に相応しいと考えたい。
○ 北上川の「きたかみ」は、日高見国に連なる。日高見国は、日本=国号の原初の地であるとする見解がある。列島史では、文献・書誌に過度に依存する立場を採る過程で、巧妙に抹殺された観が否めない。
まだある。
○ 水稲栽培に対する過度な評価の問題である。仙台の北に位置する大崎平野より北は、コメの単作に傾くべきでない地域であると考えたい。南から北に向かってコメを至上の食糧とみなす単線的世界観が、東北を何度も襲った飢饉と人口低迷の過疎に向かわせた最大の原因である。そして、この手の悲劇は、今後も起る可能性が消えてない。そこが問題である。
以上、耳慣れないテーマとその題目をただ並べただけだが。
検定教科書をベースに、ひたすら記憶を早く・正確にを求める ○ × 受験日本史型の歴史に馴染んでしまっている頭脳が大勢である。
そんな状況下で、異端の誹りは免れないであろう。
ひとつだけでも重いのに、4つも掲げてしまった。遥遠・雲大を覚えるテーマばかりだ。
さて、今日の阿武隈川だが。上に掲げたテーマを踏まえつつ、伊達なる氏族の名を担いだ人物の治績を採上げる。
伊達なる名の土地と阿武隈川との関係については、直前の稿を参照されたい。
伊達政宗は、奥羽の地を縦横無尽にかつ果敢に駆け巡った戦国の英雄であった。
彼が仙台に移転し、青葉城に入ったときは、幕藩時代の初めであり。秩序のありようが、直前期の戦国とは全く逆転し・正反対になっていた。藩主と云えども、見事に転身して。時代にキャッチアップする器の大きさを求められた。
しかし、彼への評価は、ある意味神格化され過ぎている
彼の生涯を通観した時に、北に立脚する者の不利にまず気がつく。
南に成立した・より強大な軍事と政治の結合体に、呑込まれ。
南から来るコメ論理に無防備に追従する選択をした。
彼の支配下に置かれた底辺農民の悲劇を思う。
政宗(1567〜1636 戦国大名 → 幕藩大名)は、伊達家17代当主、仙台藩初代とある。
彼は生涯に6度も転居したらしい。初期の2つ=米澤<1584〜89> → 黒川<現・会津若松1589〜90> までは彼の意思であったようだが。以後の4つは、秀吉の指図であり・江戸将軍の了解の下であった。
 3つめ  1590〜91 再びの米澤へ・・・内陸地域<山形県>での北上
 4つ目  1591〜1601 岩出山城・・・内陸<宮城県大崎平野>へ
 5つめ  1601    仙台・青葉城・・・海岸地域へ。仙台平野の中央部
 藩主退隠後の居城は、略す
17代と言うのは、古さを誇る?ジャパンブランド世界の趣味に備えて、一応述べておく。
文治5(1189)年、源頼朝が発した奥州征討は、列島史・奥羽史における最初の大事件であった。
南から北上してきたコメ論理に追従する最初の契機となった軍事行動と言わざるを得ない。
伊達氏の家祖とされる常陸入道念西は、関東武士として従軍し。信夫郡石那坂の戦いで、手柄を挙げ。戦後の論功行賞で、伊達郡を拝領し。その地に土着した。拝領の地名から伊達氏を名乗った。
因みに入道念西の本願地は、常陸国伊佐郡(現・茨城県筑西市)で。本姓は伊佐または中村であったらしい。念西の嫡子は、本願地と長世保(=ながせのほ 鳴瀬川品井沼の流域。現・宮城県松山・鹿島台・南郷の各町地内)を継いだが、承久の乱(1221)で戦死。その結果、伊達郡領を継いだ弟の系統が、伊達氏として存続した。
戦国末期の政宗には、逸話が多い。伊達の地に400年以上もの長い間経営を維持してきた、言わば名門だが。彼の実父は、奇計・奸策に遭って拉致された。追いかける途中、誘拐犯もろとも実父を射殺した。との逸話が残る。
中世アジール世界にどっぷり浸かり、強く独立自存する者だけが生き残れることを徹底して熟知した、まさに戦国の英雄であった。
武家の論理たる実力で切取った支配地のピークは、彼の時代にやって来た。
その時は、秀吉の天下統一が成る頃にほぼ重なったため、瞬間風速でしかなかったが・・・
天正17(1589)年会津蘆名氏を摺上原の戦いで破った時、伊達氏の「馬打ち」=支配領地=累積石高は150万石であったとされる。
しかし、その翌天正18(1590)年、小田原を平定した秀吉は奥州仕置を発した。
奪ったばかりの会津領は没収され、上述のとおり黒川城から再びの米澤城へ戻され、72万石とされた。
秀吉流の言い分で、小田原陣への遅参や会津蘆名氏掃討自体が惣無事令に対する違反とみなされた。
この時の政宗の腹の内は、どうであったろうか? おそらく答は、以下の経過から伺える
天正18(1590)年の奥州仕置は、結果として覆された。その年のうちに、葛西大崎一揆が起った。
一揆の大要は、奥州仕置により改易された葛西・大崎の両氏の臣下たちが、新しい領主である木村吉清・清久の父子に対して起こした反乱であった。
実を言うと、葛西・大崎の両氏は、既に長く伊達氏の「馬打ち」勢=麾下の武将=であった。よって秀吉が奥州仕置をもって改易したのは、いささか情報不足であり・筋違いの沙汰とも言えた。
しかし、天下統一を果たした秀吉としては、あえて強引な命令を発動して、絶対的権威を見せつける意図があったと言うべきであろう。対する側の政宗もまたしたたかな食わせ物であったようで、一揆の真の企画者が政宗であったことを多くの史家が指摘している。
一揆軍が一堂に会し・一挙皆殺しにより・俄かに平定された経緯を知ると、計略に長けた政宗の戦国武将としての非情さが浮き彫りになる。
ところで葛西氏だが。文治5(1189)年の奥州征討の際、平泉藤原氏を滅亡させた手柄により。源頼朝から奥州総奉行に任じられ。御家人葛西清重は、現・江刺郡に土着した。言わば名家だ。
最盛期の永正年間(1504〜21)には、葛西7郡<江刺・伊沢・気仙・元良・岩伊・牡鹿・桃生・登米。実は8郡=角川地名辞書・宮城・526頁より>を支配した。よって、葛西は地名でもある。
大崎も地名である。志田・遠田・賀美・玉造・栗原の5郡を以て大崎5郡と呼ぶ。
氏の名たる大崎は、建武の中興に際して奥州探題として派遣され。この地に土着した斯波氏の別称である。
いささか脱線だが・・・・建武(1333〜39)の頃、鎌倉幕府が陥落して鎌倉は消えてしまった。
寂しくなった東国武士団は、鎌倉に代るシンボルタワー的役割を果たす街を求めた。
それが、奥州探題が常駐する多賀城であったらしい・・・
葛西・大崎の両氏とも伊達・南部に並ぶ戦国大名として、一時期盛名を誇ったが。織豊時代の終り頃には、ともに伊達氏の一属将であった。
さて葛西大崎一揆は、伊達・蒲生から成る秀吉の命に従う軍によって、短期のうちに平定された。
天正19(1591)年再仕置が行われ。
会津黒川城にて新封の蒲生氏郷が、伊達政宗の旧領を与えられ92万石となり、奥羽最大の大大名になった。
伊達政宗は、当初仕置時点で再米澤72万石だったが、岩出山に移され58万石に減知された。
葛西大崎一揆で荒廃した葛西大崎13郡を与えられ、その代償として家祖以来400年もの長きに亘って領国経営してきた先進経済地である信夫・伊達の両郡を失った。
この時政宗は、いわゆる阿武隈川中流域などの内陸奥地しか経営したことがない武家当主から、曲がりなりにも海に面する大平野=大崎・仙台の両平野を領地経営する幕藩大名に転身する必要に迫られた。
それまでに自らの意志をもって獲得した領地は、いずれも内陸であった。
結論を急ごう。
海岸地域大名としての経営手腕は、合格点に全く達しない。
岩出山在城足かけ10年の間に、譜代の家臣が多く退散して彼の前から姿を消した。
それほど新領地の経済状況が過酷であったことが偲ばれる。
後世、伊達騒動など(山本周五郎が作品化した原田甲斐の一件)が起っているが、家臣団を知行地から切離して城下町に移転・集住させる措置が成就する前に、大政奉還する日になってしまった。
以上が失政の神髄だが。
失政の煽りを最も悲惨に被ったのは、領地内に足止めされる宿命の百姓どもであった。
飢饉に何度も見舞われて、家族・親戚を亡くし。人口の過度な減少による地域崩壊の危機を何度も味わされた。
水稲単作に本来不向きな寒冷気候の土地柄で、換金目的のコメづくりばかりを強制されたこと。そのことが失政とする所以である。
ヒエ・アワなど多様性のある栽培により、寒冷気候によるリスクの分散・軽減化の措置を図るべきであった。