もがみ川感走録 第12 最上川舟唄の8

もがみ川は、最上川である。
最上川舟唄に、意味不明の歌詞がある。
「まっかんダイゴ」・・・云々。
川面を眺めながら耳が捕らえた船頭さんのナマ唄だ。
ところが、手元資料の文字は、”股大根”だ。
資料とは、その昔、吹福寿老夫妻と最上峡の舟下りをした際に撮影された乗船記念集合写真のこと。
雨合羽装束の4人、サイドスペースに、舟唄の歌詞が2連載っている。
筆者は一応ガーデニング・ファーマーの1人? 大根十耕・人参百耕を励行しないと、根菜類の身が二股に岐れ。売り物にならない事を知っている。
筆者の悪趣味からすれば、方言もまた地名発掘・その成立ちを知るための有力な手がかりとなる。
”まっかん”と”股”の関係解明?をとりあえずのテーマに。
もう5年も前の事。
飽海郡遊佐町に住む吹福寿老に、電話インタビュウして資料を頂戴したこともあった。
斎藤茂吉に連なる反戦歌人の彼も、この5年の間に逝去された。
この感走録は、8月8日から起稿したが。その初稿において、彼に捧げている。
最上川舟唄成立の経緯が、吹福寿老から昔届いた資料の中に略述されている。
NHK仙台支局が開設された昭和7年頃、左沢町で、詩人と民謡歌手の合作により、成ったとある。
そしてその後段に。掛け声は、最上川由来とあって。あのボルガやホフマンと並ぶと称された名調子が、労働現場から生まれ・長い間に陶冶された賜物であることを伺わせる。
”もと”になったものが、もうひとつあると書いてある。
江差追分の前唄なる「松前くずし」とか・・・・
となれば、”まっかん”は、山形方言と決めつけられない、蝦夷松前の方言であるかもしれない?
”まっかん”の謎を探求するマイプロジェクトは、山形エリアから飛び出して遠い北海道にまで及ぶ事態となった。
音の類似から韓国の酒=マッコリやマッカリ=真狩村との関係を考えたし、アイヌ語地名辞典に当たるなどもした。
民謡唄なる不可視・無形の文化財?を運ぶのは、北前船であると知り。そちらにも関心・探求の手を延ばすようになった。
最上峡舟下りから約5年経った先日、最上川舟運研究家=柴田謙吾の著作『最上川小鵜飼船と船頭衆の生活』を眺めていたら。
船具・船中使用民具の章の中に「まっかズンベ」なる見出し<82頁>があって、写真も添えてある。
”まっかん”は、木の枝などの二股部。訛り言葉と説明。農耕地の極端に少ない五百川<いもがわ>峡流域で、小作地すら持てなかった雇われ船衆が,川縁の痩せ地に蒔くと、繊維も多く・二股・三股の市場に出せそうもない=”まっかんダイゴ”しかできなかった。と書いている。
残るズンベだが、甚兵衛の字を当て、爪付き草履としている。
草履に別誂えの爪先を組合せて、晩秋から春先の寒い時期に足を護った。力まかせに踏ん張る仕事が多い船衆独特の用具らしい。
二股の袋形・綾織り足袋のような藁編み・足半<あしなか>ほどの長さ。
続く歌詞は、耳では「しょっつるに」だが、例の記念写真では、塩汁煮の字を当てる。
秋田に”しょっつるナベ”と言う郷土料理?がある。
彼の地で冬期間に穫れるハタハタをベースに、魚醤の調味料を加えて味付けすると聞く。音は近いが、同じものかどうか?が、はっきりしない。
更に”塩しょぱくて喰らわんねェちゃ”と続いている。意味は、東北人であれば、ひどく塩辛いので全く食えんであることが判る。
”喰らう”と言う古語めいた言い方だが、淀川筋の「喰らわんか餅」などに連想が飛ぶから、操船界共通の用語として伝わったかもしれない。
では、小鵜飼船に乗込んだ船衆の実際の食事は、どうか?
職業に貴賤の別、仕事に上下の差はないが。労働環境劣悪な舟運従事者の最も厳しい場面は、食と住であった。
まず食だが、全航行を通じて自炊であった。乗組員中の見習い若者が、炊事担当であった。
前掲書の船具章の中から証拠らしいものを2つ見つけた。
カスキ(28頁)とかすり(54頁)だ。
前者は表櫂の別名で、舳先を占める若い船衆が扱う漕ぎ道具。
後者はいわゆる閼伽取<アカトリ>のことで、船底に溜る水を掬う道具。閼伽取仕事を担当するのも若年見習い役であった。
とった閼伽(ラテン語で水のこと)は盆ジョケに溜めておいて,纏めて船外に捨てるのだが。濁水時は川水を汲む炊事水には使えない、そこで盆ジョケの水を使う事もあったらしい。
次に住だが、『松川舟運図屏風』を見ると、小鵜飼船のほぼ中央に幌のような高いものがみえる。
前掲書の船具章の中に、「小屋」(51頁)が日常生活の場所であると書いている。
小屋は、人の背ほどの高さもない2坪強の広さしかない蒲鉾型の屋根囲いだが。屋根を”のま=苫の訛り?”と呼び、細板と藁で編んだ、簡単な風雨よけであった。その屋根下に炊事用囲炉裏・炊事用鍋・甕・米びつ・包丁・箱膳など諸々一式と当座の食材などが収納されていた。
小屋は、舳先と鞆<船尾>とのほぼ中間にデンと置かれている。
何故か?燃料である薪だけは、船尾の船頭の踏み板=「たづぐら」(24頁)の中に収納されていたと言う。その背景がよく判らないが、水濡れ防止によい場所が船尾の床板下であったかもしれない。上述したかすり&盆ジョケも常時小屋の中に置かれた。
因みに、北前船でもカシキは最年少の乗組員の呼称、担当職務は”炊ぐ<かしぐ>仕事”であった。
そこで、小鵜飼船の航行日数が問題となる。
後世になると小鵜飼船は、最も上流の米澤から直接に終点の酒田港まで乗入れし・そこに2〜3日滞在して上り荷を探し・積込み次第に遡上して,出発地に戻る。
その1航行日数=1ヵ月はザラであり、途中 降雨増水待ちや風待ちをすると40日くらいに達する事もあった。
しかもその間、甲板すらない小さい小鵜飼船の中で屋内<やうち 3名乗組が1艘の基本構成。訛りから”やおじ”と聞こえたらしい。1船団が3艘屋内〜5屋内で編成された>が、四六時中暮らし続けると言う厳しさであった。その背景に、金銭的に恵まれない暮らし向きもあるが・まず第1に積み荷を盗難から護り抜くため監視が必要だった。
そこまで日脚が長いと、食材の備蓄は困難だから。当然航路の途中で、農家に立寄り。手持ちの余剰食材を分けてもらったことであろう。
年端もゆかない若い水夫が、ぶっつけで作る男料理。唄どおり、とても食えるものではなかった。
上・下航路とも、荷を満載することが当たり前の輸送業務船の中に、加工食品を積み置くようなゆとりスペースも無かったことであろう。やはり食えないなあ
ハイリスクと言い、生活環境と言い、船衆の日常はかなり厳しかったようである。
とまあ、長々と述べてきたが、小屋つまり船室が、舟の中央部にある例を他所で見た事がない。
帆を備える舟と言えば、舳先と鞆とのほぼ中間位置は、まず帆が置かれる。
中国のジャンクでも・海賊映画で見る3本マストのキャラベル船でも船長居室は船尾楼である。
小屋は、高楼と呼べるほどの立派なものではないが、用途において船長居室そのものである。
最上川の小鵜飼船の1本だけの帆柱は、舳先から船長の4分の1ほど前寄りの位置つまり前梁の上にある。中梁の位置にある小屋を避けて、大前進した位置=異例である。
最上川の小鵜飼船は、世界の造船・操船史上でも例外中の例外とも言える特異な舟型である。