もがみ川感走録 第11 最上川舟唄の7

もがみ川は、最上川である。
さすがの小鵜飼船にも、引退の時期がやって来た。
舟唄を聴かせながら、悠々と川下りする姿は、遊覧船だけの光景になって、もう1世紀が過ぎようとしている。
幕末の頃 東京湾にクロブネが現れて、蒸気機関で動く船を、初めて見た関東人の驚きは、瞬く間に列島全域に広く伝わった。
多くの日本人は、機械と内燃機関の組合せによる大型メカニズムについてそれまで全く知らなかった。新鮮にして極めて大きなショックであった。
それがどれほどのものだったか?回天揺地と表現しておこう。
ラジオやテレビが普及した現代人の感覚では、追体験不能のレベル。
敗戦同様、生活全面に改変が及ぶ革命的規模の驚きであったようだ。
そのクロブネ来襲の耳情報から約50年経過する頃、最上川流域にクロガネが南から迫って来た。
クロガネもまたクロブネ同様、自ら動く鉄の塊りに見えた。
真っ黒い煙を吐き出し、大きな図体をものともせずに迅速に走る怪物。まさしくその昔聴いたクロブネの陸上版であった。
文明開化の鳴りもの以上に、喧しい・黒い怪物=鉄道が、南から押寄せてきた。
最初の鉄道列車が、山形県に姿を現したのは、1899<明治32>年5月の事であった。
この月、奥羽南線の福島〜米澤間が開通・営業した。
当時の庶民が、急激な風俗転換や強制された秩序改変に、容易にリスポンスしたわけではなかったし、スムーズに時代の波を乗り越えたわけでもなかった。
これもまた今昔の感がある。
今日の新しモノ好きにして,新生活グッズに飛びつくような軽佻浮薄の国民性が形成されたのは、いわゆる生活苦から解放されたかに見える戦後の新時勢的出来事と言えよう。
それはまた、視点を変えれば、文明開化と開国ショック・国民皆兵後の大敗戦ショック・外国オキュパイ軍駐留ショックなどの苦渋を味わう事を経て、やっとこさ たくましい民草に成長した結果であるとも言える。
山形県に住む庶民にとって、鉄道開通はやはり眼の前を走る陸上クロブネとの現実たる遭遇であった。
生活面に現れた大きな変化から2・3採上げてみよう。
まず消費物資が、かつてない量目で供給される時代が来た。
特に冬の間も潤沢に供給されるようになった。かつて無い新現象だ。
それまでは、積雪による根雪の便りとともに。各地の峠が閉鎖状態になり、陸路を経由する人貨の流れはストップした。
すべてが雪に閉ざされる冬の間。唯一の開放経路として、細々ながら動いていたのは最上川の舟運であった。
そして明治開国以前のほぼ200年間を通じて、ほとんどあらゆるものは、北からもたらされた。
北とは、最上川の出口・入口たる酒田港のある方角である。
参勤交代で江戸を往復する武士階級がもたらす口コミ情報を除けば、庶民に関わりのあるほぼ全ての物資も情報も酒田経由であった。
1899年の鉄道トンネルの口開けは、回天揺地の方角転換であった。
それまで北から届いていたものが、突然に切換り、急遽南から大量にやってきた。
だがしかし、物資豊富のメリットを多くの庶民が享受する事は無かった。
生活に必要な資材は自給自足する=正しく言えば、モノを買いたくても買えない旧態然たる厳しい暮らしに喘いでいた。
さて、鉄道建設の動きだが。
上述したとおり奥羽南線の建設は、1899年東北本線福島駅から米澤へと向けて起工された。
奥羽北線は東北本線青森駅から5年早く1894年に起工され。西馬音内の盆踊りで知られる横手〜湯沢間において、南・北の鉄路が1905年接続され・全通<484.5km>した。
福島〜山形〜新庄<148.6kmの新幹線区間>〜湯沢〜横手〜/大曲〜秋田<51.7kmの新幹線区間>〜大館〜青森間が、奥羽本線に改称された。
この頃でも最上川の小鵜飼船は活動していた。
大石田〜酒田間の下流域は、むしろ活況期に入り。大転落直前のピーク時代を迎えつつすらあった。ただし、大石田より上流に当る中流域の物資流通は、奥羽本線ともろに競合するため急速に低迷し始めていた。
比較的に命脈を保ったのは、鉄路から遠くかつ川の道に近い左岸域丘陵部の流通であった。この地域の物資流通が先進域の右岸平野地帯と同等の陸路経由サービスを享受したのは、道路ならびに橋梁施設の整備をみる昭和期に入ってからであった。
一時的に活況を呈した下流部の小鵜飼船も1914年までに最後のトドメを刺された。いわゆる陸羽西線の全通営業開始である。
細かいことを言うと、陸羽西線は複雑で、余目〜酒田間<12.2km>は、後に羽越本線の一部に編入されている。羽越線の建設は、3点からそれぞれ起工されるなど複雑な構成・経緯を辿るので、ここでは踏込まない。
筆者の関心は、最上川と並走する新庄〜酒田間<延べ55.2km>である。
当初の名称は、酒田線であった。1913年奥羽本線新庄駅から起工され、年のうちに古口まで開通・営業開始となった。
最上川舟運が、低迷期に入る時期は、鉄道網の構築期とほぼ重なるとされる。しかし、小鵜飼船が舟運の歴史から消えるのは、戦後の昭和40年前後であるとする説がある。そこには山形県特有のある事情が存在したためである。その詳細は、明日論述する事にして。
消えゆく舟運に関し更に2〜3の周辺事情を述べておきたい。
まず、北前船との関係である。
河川舟運はそれのみ単独で成立っているわけではない。従って、陸上輸送手段との競合敗退など、単純な理由で命脈を絶つわけでもない。
流通経路は、想像以上に複雑である。北前船は、遠路海航船だが。寄港地は酒田から新潟・酒田から秋田・土崎などの主要港であった。そのような運航を大廻航路と言う。
主要港で積替えられた貨物は、小廻り航路なる近海短路の海航船によって、より小規模の港に運ばれ。そこでまた、川船に積替えられて消費末端まで届けられた。
流通事業において、生き残るための条件は、集荷地から消費末端まで一貫したサービスを維持することにある。しかし情報提供も含めたサービスのレベル合わせは、実は相当に困難かつ高度な経営課題でもある。
単にコスト面だけの経済競争であれば、オール舟運が鉄道輸送に敗退する事は無かったかもしれない。しかし、列島では見事にかつ速やかに敗退して消滅した。そこにこの国特有のあまり知られていない固有の背景がある。
次に、鉄道ネットワークの構築である。
クロガネの爆走は、陸上版クロブネの来襲であったと、かなり大袈裟に述べたが・・・庶民一般の受けとめ方を端的に要約しているものと考えたい。
列島では、権力が鳴り物入りで押し進める事業をスンナリ受入れる風潮がある。否、おおいにそうなっている。我先に飛びつく事で、一気に上昇する契機としようとする赴きすらあるようだ。
軽佻浮薄・機を見るに敏な国民性の一面とも言えよう。
鉄道事業は、国策としてごく短期間のうちに強力に推進された。輸送機能は、富国強兵策の基礎要因でもある。
採算性や償還年数などの経済性を度外視して強行される。それは、計画経済もしくは国家資本主義の範疇に含めるべき政治偏重システムだ。
政治主導の経済システムは、多くのぎこちなさをもたらす。
よって、この国が慢性高コスト経済から脱却することは、当分無理であろう。
経済体質がクロブネ症候群に由来するスジガネものだからだ。
最後に、1896(明治29)年に制定された我が国初の河川法との関係を述べる。
河川・治水事業において、この時明治政府は画期的大転換策を打出した。
いわゆる高水工事主義の導入だ。世界でも希な列島改造への着手である。
洪水から土地を護る政策を最優先とし・舟運事業を犠牲にすることを躊躇しなかった。
このある意味偏った愚策は、戦後の河川法改定により見直され運用されつつあるが、遅きに失した観が強い。回復困難なレベルに達した明治の列島改造を、今から手直しできると考える事自体クレイジーとする見方すらある。
より辛辣な見方もある。
鉄道事業を盛上げるために、既存の舟運事業を壊滅させようと。河川法をあえて偏らせたとするものである。
舟運史を回顧すると、小鵜飼船が最後に運んだものはコメであった。大量輸送・重量物輸送こそ陸路輸送に不適であり・舟運に最適な荷姿であった。
だがしかし、コメも最後には小鵜飼船を見限った。
官営輸送まさに恐るべし。
このようにして、遅れて開国した後進経済システムは、高コスト構造を定着させ・慢性化した。