もがみ川感走録 第10 最上川舟唄の6

もがみ川は、最上川である。
引続き、小鵜飼船について書く。
既に書いたが、この舟は米澤藩によって最上川に導入された。
直接の導入元は、阿武隈川であるが。上杉氏・米澤藩には、阿武隈川との間に特別の歴史的結び付きがあった。
更に内陸部に居を占める藩だけの地理上のハンディとも言うべき・幕藩期地政学での固有の空間事情もあった。
ここでは順序を逆転させて、まず米澤・置賜の地に入部した米澤藩特有の空間事情を述べる。
入部した当初。領内を流れる最上川の舟運を利用して酒田港に達する事はできなかった。
眼の前の松川・最上川は、時に洪水をもたらし。吾妻山系に降った雨を遠く日本海まで流しはしたが、舟を浮かべて人や物を運ぶ役割を全く果たさなかった。
最上川の河床岩礁が、通船を阻んでいたからだ。
こと水運に関して、米澤・置賜の地は長く孤立した奥地であった。
陸路と水路を組合せて四方・八方に連絡できるから。「孤立した地」なる表現は、行き過ぎとも言えるが・・・・
コメや塩などの重量物搬送負担は、とても重圧であり・大きなハンデであった。
特にコメは、陸・水の経路を問わず、積替作業の都度、砕米が生じて。大きく商品価値を損なった。
コメの陸路輸送<百姓が年貢米を藩庁に届ける搬送を除く>は、荷駄搬送となる。
河川〜海路の搬送ルートの方が、圧倒的に積替の累積回数が少ない。
よって全部水運は、低コストでもあり・砕米化を回避し収益極大化の面で、陸路搬送に優っていた。
ただし、水運にもネックはある。破船事故である。
破船には、沈没から防風波浪による漂流などさまざまな程度がある。
船体喪失を免れても暴浪などで水濡れすると、ほとんど全損に等しかった。
急流で名高い最上川と太平洋(=東廻り航路)の中の三陸沖と房総沖とが、知られた破船銀座であった。
その点陸路搬送は、降雨に備える防備策もあり、全損状態はまず無かった。
列島全体で見れば、各藩領の分布状況に応じて藩米の輸送をどうするか?は、各個別藩の事情だが。最も重いハンディを担ったのが、米澤藩であった。
次に、阿武隈川との歴史的結び付きについて述べよう。
上杉氏・米澤藩には、石高30万石時代と減封後の15万石時代とがある。
入部直後の30万石時代、板谷峠の向こう側に当る陸奥国信夫・伊達の地に藩領があった。
15万石に減封されたのは、寛文4(1664)年。3代藩主の綱勝が無嗣子のまま急死した。改易処分相当のところを、正室の実父に当る会津藩主の保科正之が奔走して。
格別に末期養子が認められ藩の取潰しは免れたが、石高を半知収公された。
この時、阿武隈川流域に位置する信夫・伊達の藩領を失った。
しかし、寛文4(1664)年当時。阿武隈川舟運自体が揺籃期以前の未熟な状態であったと思われる。
この頃藩外に藩米を搬送するという発想も手段も無かったようだ。
そんな事情もあって、小鵜飼舟が最上川に導入されたのは、ほぼ100年後の18世紀後半<宝暦年間=1751〜63>のことであった。
閑話休題
呼名は同じ小鵜飼舟でも、導入元の阿武隈川最上川では。河川の操船環境が様変わりであるから、船体の諸元も異なる。
先に述べた通り。列島全体の川船考証が造船研究面から全く成立しておらず、確定的な事は述べにくいが・・・
川の流れが穏やかで・河床が砂地系の阿武隈川の小鵜飼舟の方が、最上川のそれよりも長さを短かく・船腹も広く・舷板の長さを短かくして吃水を浅く保つべく建造された。
最後に、最上川小鵜飼舟の特有の造船・操船の事情を紹介して筆を措くこととしよう
まず櫓<ろ>を全く使わなかった。
おそらく列島中の河川舟運において、舟に”櫓”が備わる事は、川船の常識ですらある。
筆者に少年時代 生まれ故郷の川で、櫓も櫂<かい>も操作した体験がある。
どちらも基本的な推進装置だが、同時に舵<かじ>の機能をも果たす。
筆者の乏しい体験からして、櫂はより体力を消耗し・櫓の方は格段に楽チンな道具であったと記憶する。
そのような重宝な櫓が、最上川の小鵜飼舟には備わらない。
その理由は、急流と河床岩礁のためだと言う。
次が、舵単体の備付けの省略である。
最上川では、とも櫂(下流域では舵櫂とも言った)をもって舵の代用にした。
とも櫂の機能は、専ら舵の機能。櫂が大きく・重くて、推進用に操作する事は困難であった。
その舵取りすらも難所に差掛かると、より力のある若衆に持場を譲って”とも櫂”を護ってもらったと言う。
因みに「とも」とは、船尾を指す。船頭(=操船責任者)の定位置である。
その舵を取付けなかった背景が、実はよく判らない。
端的に人員削減=人件費の節約を狙ったものと考えられよう。
しかし真相は別かも?
急流・岩礁で有名な最上川はハイリスクなるが故に、乗組み要員を集める事そのものが難しかった。と考えるべきであろうか?