おもう川の記 No.32 阿武隈川の2

阿武隈川の続編=第2節である。
阿武隈川は、言わずもがな。福島県の中央平野地帯<いわゆる中通り・古くは仙道とも言った>を流れる東北第2の大河だが。同時に隣県宮城県の基本地形をも規定する地理基軸である。
そのことは、かつて出羽が分離・立国されて以来。長い間、残された東・東北が1個の地域的結集=陸奥と呼ばれて、一群扱いされてきた経緯にも符合する。
細かいことを言えば、続日本紀の記事により。養老年間に一時的に陸奥から分れて。岩城・石背<いわき・いわしろ>の2国が置かれた。しかし、僅か数年で元の陸奥国に再統合された。
経緯不明ながら、珍事と言えよう。
更に付言すれば、明治元年にも磐城・岩代<いわき・いわしろ>の2国が置かれたが、現行の福島・宮城の県制に移行するまでの線香花火で。しかも戊辰戦後の優勝劣敗的措置の匂い強く、一顧だの意味も無いと言うべきであろう。
兎角、白河以北は、いじられやすいようだ。
さて、地理基軸と考える背景を2点に絞り、下記に要述する。
まず、盛岡・白河構造線である。
北は北上川が形成した北上縦谷平野群と南にある阿武隈川が造り出した阿武隈縦谷平野群とが、その中間に位置する仙台平野によって連結されて。1本の長い構造地形を成しているとする見方である。
次が、水流および舟運の連接を踏まえた解釈である。
栃木・福島県境に当る那須山群高山帯に源流を発し福島県域の南の端から北に向かって流れ下る阿武隈川は、北の端で福島・宮城県境を越える。
そして間もなく荒浜で仙台湾に注ぐ。
仙台湾を北上して、塩竈浦<仙台湾の内湾たる松島湾に属す港>から鳴瀬川河口を過ぎて、北上川河口の石巻港へと連なる。
一部海湾を経由するが、一衣帯水の準内水面を形成し。東廻り航路を利用して江戸へ向かう廻米は、仙台湾において海航船に積替えられた。
仙台湾に集荷された廻米は、想定上ながら現在の岩手県宮城県福島県の大部分に及ぶ広域地の産米であったと思われる。なお、ここで想定上と断定を避けたのは、明治以降の河川改修・沼地干拓事業の進行により、舟運航路が躊躇無く破壊されたらしく。現在時点から行う舟運航路の図上復元が、容易に進捗しないためである。
北上川の舟運は、本稿の主題ではないから。ここでは伊達政宗が創始したとされる貞山堀(=運河)を採上げる。
貞山<ていざん>は、正宗の追号に由来するが。命名されたのは、明治10〜17年頃に成った東名・北上の両運河と連結された時だが。貞山堀は、それ以前から存在した。
貞山堀の正確な開鑿年代は不明だが。最も古くから存在した南部区間は、正宗が居城を岩出山から青葉城に移した慶長6(1601)年に造られたと言う。
築城用材を阿武隈川流域から運ぶために造成された人工運河であり、その名もずばり木曳堀であったと言う。
その正宗の構想は、明治の後まで引継がれ。阿武隈川北上川との間を仙台海湾によらず、人工運河で一気通貫するための後継事業が営々と続けられた。
よって、現在では内水面での舟運による北上川阿武隈川の連続は、成就している。
閑話休題
「あぶくまがわ」なる川の名は、『あうくま』から生じたとする説が一般的である。
音韻的に、”あぶ”と”あう”とは、どう考えても繋がらない。
そもそも繋げることに無理があるのだが・・・3歩退いて考えることにしよう。
耳の悪い者が文字面だけを眼で見て、訛って発した音を一方的に強権をもって現地に押付けたのであれば、そのようなことも・時代もあったような気がしないでもない。
岩沼市阿武隈なる町名と二木<ふたき>なる町名がある。
因みに宮城県岩沼市は、阿武隈川の左岸・河口に立地する街であり。古代から陸水の交通上の要衝である。
岩沼市阿武隈なる町名は、近年の区画整理によって付けられたが。元々その地に存在した地名に由来する由緒ある名である。
岩沼の旧名は、武隈<たけくま>である。「隈」は、曲がりを指す言葉であり・屈曲する河川地形をもつ阿武隈川に因む土地名である。
音が通う竹駒神社は大稲荷で有名だが、二木の地にある。
「おくのほそ道」によれば、芭蕉もこの地を訪れた。
    桜より  松は二木を  三月越し   と詠んでいる
これで”くま”の意味と由来は、決着したものとしよう。
残る”あう”の方をどうするか?それが問題だ。
結論を急げば、阿武隈川河口の渡河点は、陸水路合接点でもあり。とにかく人が出会う場所であり、”あう”の名に相応しい所である。
似た地名由来の地として東海道に「逢坂の関」がある。歌枕の地である。
古歌に、  『知るも知らぬも あふさかの関・・・・』  と詠まれ、とにかく人と人が行き逢う名所だったらしい。
これを傍証にすれば、『あうくま』も確実にその要件を備えているようである。
武隈<たけくま>の地は、奥州街道の宿場であり、川と海が出会う河口の街でもある。
古代は、河川に橋が無い時代であるから。大河=阿武隈川を渡河することは、難事であった。
最も有力な渡河点が、河口に当る亘理町・荒浜と武隈<現・岩沼市>・玉崎の間であったと言う。
そしてそこが、中通り筋を通る旧・東山道と浜通を常陸から海沿いに北上してきた旧・東海道との接触点であったのだ。まさしく”あうくまの地”である。
岩沼の対岸である宮城県亘理郡亘理町にも『あうくま』地名がある。
そもそも亘理町は、1955年に逢隈<おうくま>村などの2町2村が合併して現在の町名になっている。
その逢隈の地に古社4社があり、多く鹿島の社名を持つことから、この地が古い時代 常陸から北上した開拓者により開かれた土地であることが伺える。
その中に逢隈田沢に鎮座する安福河伯神社がある。しかもこの神社は式内社延喜式神名帳所載>と同名だが、三代実録所載の安福麻<アフクマ>水神と同体神であるとする説が有力である。
文献、文字表記に偏りがちではあるが、阿武隈川の名は、河口の両岸に当る2つの街にある地名から起ったようである。