もがみ川感走録 第9 最上川舟唄の5

もがみ川は、最上川である。
今日も前節に引続き、小鵜飼船に人生を浮かべて。
ハイリスクで、肉体的に過酷な労働であるが故に。
結果的に太く・短い生涯であったろうと思われる。
哀感に溢れた最上川船衆の生活の一端を紹介しよう。
最上川舟運史の後半に登場し、最後の勝利者としてヒラタブネを追いやった小鵜飼船にも、弱点があった。幅広・平底のヒラタブネでは、起きなかったことだが・・・
舟幅が狭く・細長い小鵜飼船にこそ特有の弱み。
ヨコ風を受けて、転覆しやすい
それが、スリムな流線型のエリート舟が抱える悩みであった。
小鵜飼船を転覆させる風には、船頭仲間にのみ通ずる名前があった。
まずは、胴腹(=どっぱら)・・・・西から吹く、瞬間的に走る強風。風の発生源は、月山・葉山とされた。
視界が開がる中流域〜海風が当たり前の下流域に突発する季節風だが、下がり舟・上り舟ともに恐れる必要があった。
次に、ダシ風・・・・東から吹く強い風。流域の名を冠して「清川ダシ」とも言う。
ダシは三陸方向にある高気圧から日本海方面に向かって吹き出す恒常的な強風群の呼び名。
東北地方では、ごく普通の夏の風である。
清川とは、幕末に知られた清川八郎の生地。庄内平野と最上高原との中間に位置する双璧の山峡地形であり、強風群の通り道となる川の中を遡上船が通航することは、大変な重労働であり・同時に転覆の危険もあった。
なお、ダシは東風と漢字を当てる。風上が卓越風と真逆な方向になることから、不慮の突発事故を招きやすい。北東北の地ではヤマセなどと呼び、嫌うことが多い。
例外的に唯一好評な地域がある。秋田県南部の穀倉地帯である。内陸地域の角館・田沢湖の周辺では生保内東風<おぼねダシ>と呼び重宝がる。
奥羽山脈の高地を越えて生保内<おぼない>地区に下る時には、フェーン現象によって暖かい風となり。イネを育てる。民謡『生保内節』では、宝風と崇めている。
最後は、船衆が最も喜ぶ風の話題。アイヌ風と言う。
秋の頃、北の方から恒常的に吹き出す、実に有難い風である。
北風が吹くと、上り舟は帆を使うことができる。それは最上川が南が高く・北が低い地形だからだ。北流する河川だからこそ北風が恩恵となる。
言うまでもないが、下がり舟は、川の流れの力<=自然そのものの位置エネルギー。再生エネとも>に乗って流下する。よって下がり舟は、原則として帆を使う必要がない。
逆波は、そのアイヌ風が起こす川浪だ。
”さかなみ”とする意味はこうだ。川の流れは川下に向かうから、水流ベクトルは北向きである。対する強風ベクトルは、風上の北から風下の南に向かって吹き下ろす。
2つの力のベクトル方向が、ほぼ逆だ。波頭は殊更高くなる。
この秋から冬にかけて起る最上川の自然現象を見逃さず、和歌に詠んだのが。斎藤茂吉(さいとうもきち 1882〜1953。上山市生まれ、アララギ派歌人精神科医師)である。
   最上川  逆白波の  立つまでに
          吹雪くゆうべと  なりにけるかも    歌集・白き山 より
彼と最上川との出逢いは、大石田町時代のことであろう。戦時期に疎開している。ある意味彼の不遇時代だ。幼若期生育環境の中で最上川本流と重なることは、おそらくない筈。
実相観入を標榜して写実主義を掲げ・万葉歌風を貫いた彼の代表作と呼ぶべき秀歌である。
さて、小鵜飼船と船頭衆の話題に戻ろう。
東北 酒田の春は、北からやってくる。  南からの間違いではない、、、
北前船が積んでくる鯡<にしん>の到来が、最上川のホントウの春の来訪である。
春の早い頃 上流から荷を運んできて、既に荷下ろしを済ませたのに。何故か?酒田港周辺にウロウロする小鵜飼船と船頭衆が目立つ。
彼らは、心ひそかに北前船の入港を首を長くして待っているのである。
春にしんが、酒田港に入荷すると。彼らは一斉に買付けに走り・我先にと舟に積込む。
遡上コースは、綱曳きの重労働が必須だから。船団を組む集団行動が当たり前だが。この時ばかりは屋内<やうち=小鵜飼船1艘の乗組員をいう>のみの1艘ごとの出帆となる。
いわゆる『カド舟』航走のスタートである。
春カド・マッチレースの始まりでもある。
1艘ごとガチンコ勝負の川上り競争である。
同僚の舟を出し抜いて、運良く目的河岸にトップで達することができれば。荷主からご祝儀が出た。金一封は実益の方だが、船頭衆としての名声を高めるチャンスでもあった。
春カド舟は、一目散にただただ上流を目ざしたわけではなかった。
そこにこそ、それぞれの船頭衆の創意と工夫があった。
春カド・レースでの勝利も大事だが、身体を張った年間レースで生き残る算段。何時起るか予測困難な事態に備える。それが実務者として重要事であった。
船乗りは常に生命を失うリスキーな日常・危険が不可避の生存レースの日々。
最悪の事故が起ると駆けつけて来て、力添えしてくれる流域農民。不測な事態への備えとしての交際=年1度限りの「カド投げ」、周囲の点数を稼いでおくべき大事な時。
それがビッグマンであり続けるための仕掛けであった。
「カド投げ」とは、川筋に住むあちこちの知合いに、カドを届ける行為である。
その日のレースに負けないように、一生懸命綱を曵きつつ。要所・要路の支援者に挨拶してカドを手渡し、不測の事態での協力かたを依頼する。危険な川仕事人間が、果たすべき。1年に1度の何とも忙しい遡上航行であった。
腕のよい船頭は、カドの総重量を正確に読んで、酒田港での積込量を調整したし。
このカド舟の時ばかりは、始発から船曵き人数を増やした。
屋内の誰かが・時に自らが上陸してカド投げしている間も、カド舟が休むこと無く上流に向かって遡り続ける措置を講じた。まさに男の才覚が発揮される顔見せハレの日であった。
「カド投げ」を受ける流域農民にとっても、春カドを受取る日は待ち遠しい春の到来であった。
農機具が無い・動力の無い頃の農業である。肉体を酷使する重労働の春耕作がそろそろ始まる。塩乾魚=動物タンパクの摂取は、雪国の長い冬からの脱却を意味した。年中行事と同じ重大な好事だ。
因みに東北語では、カドは鯡を指す。数の子=カズの子=の親はカド、当たり前と言えば当たり前だ。
投げるは、東北語で捨てるの意味もある。上述の例では、無償で差上げるから”投げ”なのかもしれない。
他方、カドを受取る側は、”カド付け”と言ったかもしれない。付けるは、無償の好意を受取る側から相手の行動をそう詠んだか?
ただ、本来の4音語はほぼ芸能に因む用語だ。由来において関連性があるかどうか不明である。
船頭衆の忙しいハレの日が終り、家路を辿る。
家族に持ち帰るカドの数は、待つ者の期待に反して意外に少なかったに違いない。
さて、話題は突然に鵜飼に飛ぶ。
先の稿で、既に鵜飼について述べた。再掲する
かつて列島各地で行われた、鵜に因む地名も多数残る。
イネの栽培技術にともなって列島の外から伝来した漁法であるとする説がある。
などだ。
長良川木曽川の見せ鵜飼に、惹きつけられがちだが・・・・最上川のカド投げ・カド付けを踏まえると、年に一度限りの贈答セレモニーが、各地各方面にある・共通行動性に気がつく。
鵜飼は、単なるショウではなく・贈答の原材料であるアユを手に入れるための重要な作業であった。
だからこそ、手間ひまかけて厄介な鵜を年中飼い続けたのである。
尾張徳川家は、宗家徳川将軍に鮎寿司を届けていた。
コメを主食とする食生活では、タイムリーに動物タンパクを摂取することが必要である。
列島各地に、鮒寿司・ハタハタずし・カブラ鮨・だいこん寿し・鯡ズシの例がある。因みにカブラ・だいこん等の植物は隠れ蓑に過ぎず。名が隠れている魚こそが本命だ。
若狭から越中までの地域に、サバ街道・ブリ街道なる「"ギョ”エクスプレス」がある。
夜を日に継いで、ひたすら走り抜けて、山奥(=京を含む)の得意先に肴を届ける。
となれば、最上川のカド配り&鯡運びは、『カド川道』と呼ぶのが相応しい