もがみ川感走録 第7 最上川舟唄の3

もがみ川は、最上川である。
最上川舟唄の歌詞に現れる「小鵜飼舟」(こうかいぶね)を宿題にして、先送りしてきたが、もう逃れられないようだ。
”航海船”なる当字は、誤りであると既に述べた。
小鵜飼舟について論ずる事は出来れば避けたい。
ここまで書き進んで来て、今更引き返すことも出来ない。
これも後悔のうち。と語呂合わせしても、遅いか・・・
なお、心ある読者の方は、本稿を読まずに。現物を訪ねて頂きたい。
筆者が知る限り、2つある。
酒田市の山居倉庫の外庭に1つ
山形県立博物館に1つ
最も賢いアプローチの仕方は、ひたすら現物を観て。答を自ら導きだすことである。
山居倉庫の方は、実用船の静態展示なのか?それとも復元船なのか?の別が判らない。
後者は、復元船である。最上川舟運研究者の柴田謙吾氏が、平成元年に寄贈したもの。大石田町の造船所にて建造した経緯も明らかである。
さて、いよいよ本論を述べる
小鵜飼舟を含めて、「列島の川船は、ほとんどその実態が判らない」とされる。
それが船舶建造の専門家の述べる公式見解である。
従って、ウィキ〇〇などで妙に歯切れのよい見解を望見するとついグラリとする。
肯定も否定もともにとても難しい。
この国に隠れなき某省・某河川管理所が掲げる最上川電子事典にある”ヒラタブネ<漢字あり=扁は舟・旁が帯>も小鵜飼舟も舵が無い”などとの記述を読むと、傍証固めに2〜3日振回されることになる。
舵を使うことが、川船の場合 希であったとしても 舵を備えない舟があると思えない。
但し、何を”舵”と呼ぶか?その定義次第でもあるが・・・
船の科学館なる国の施設がある。舟に関する総合研究機関である。
先日必要に迫られて訪問したら、展示機能を休止して、もう数年経過していた。
海国ニッポンの舟運一般に対する国民感情の反映の一端か?実に残念なことである。
以下は学芸員さんの談話の受売りである。
関東に限れば、川船絵図がある。享和2<1802>年制作の「船鑑・ふなかがみ」である。その成立ちは、いわゆる川船役所=幕府の徴税組織で使用した職員研修資料であったようだ。
ここで更なる脱線。
利根川はかつて江戸湾に注いでいたのを、銚子口にもってゆき・太平洋に直接放流するように付替えた。徳川幕府が敢行した最大の土木事業だが、その結果として、列島でも希な大規模運河網が形成された。完成は17世紀半ば。
そこに、かの有名な河村瑞賢による東廻り航路の監修<寛文11=1671年>が加わり。津軽海峡を越えて上信越・奥羽の・そして北関東の産物が、江戸流通圏の中に組込まれることとなった。
さて、本論に戻ろう
川船のことは、ほとんど判らないと言うのが正しい言い方である。
ヒラタブネは、酒田船でもあるし・淀川にもある。最上川では、コメを250俵も積める大型に属する川船である。だがしかし、呼名が同じだからと言って、酒田船と淀川ヒラタブネが同じ系統の船であるとも言い切れないらしい。
実は川船で、もっと大型の船があった。関東は利根川高瀬舟である。コメを500俵も積んだらしいから、ほとんど海船級である。
高瀬舟と言えば、森鴎外の世界だが。これもまた同じ名前を持つ舟ながら、京都の水系と関東の水系とでは、あまりに格=船体規模が違い過ぎる。
バランス上京都の高瀬舟の積載性能を示したいが、原資料の表示が”石”だ。石→俵の換算率<時代や地域により異なる。統一されたのは明治以降>が判らないので割愛する。
川船の場合、同じ舟=つまり用途や構造系統が共通のこと=でも、運用水系が異なれば、呼び名が異なることも当然となる。これも学芸員の話=専門家の談は徹底している。
もちろん川船の研究が、全く等閑視されたわけでもない。
川漁用の小舟が、各地の河川に比較的多く残っており。これをもって推定・想像するわけだが、物資輸送と魚釣りとでは、あまりに用途・状況など開き過ぎており、相当に難しいものがあろう。
さて、そろそろ纏めよう。
最上川で使われた小鵜飼舟は、コメを40〜80俵の範囲で積む小型の舟であった。
積載量に幅があるのは、この手の舟が注文生産であるからだ。漕ぎ手が、最上川の運用水域にあわせて、造り手に対し個別に発注した。
その点現代人の消費は、大量生産に飼いならされ過ぎており。皆同じものを持ち、僅かな型式差と値段差をもって、他人の懐ろ具合を値踏みする・・・なんと悲しい性だろうか?
個別注文・個別生産が当たり前の時代、人のスケールは今よりも大きかった。
さて、先ほど登場した柴田謙吾氏によれば、最上川に小鵜飼舟を持ち込んだのは、上杉・米澤藩であった。宝暦9(1759)年に藩の所有船として建造した。
ここで言う”持ち込む”とは、本来最上川に存在しなかった船形を新たに導入したの意味である。
導入元は、阿武隈川である。
上杉・米澤藩で導入窓口を勤めた人物は、荒浜役の今成・某であった。因みに荒浜とは、阿武隈川の河口に当る地名である。
当時米澤藩は、置賜領の産米を板谷峠経由で運び・阿武隈川水系に繋いだ。荒浜役が置かれたのは、河口の荒浜で海船に積替えて・東廻り航路で江戸廻米するためである。
因みに米澤藩は、当初入部当時 阿武隈川水系に臨む陸奥国信夫郡伊達郡に藩領<石高30万石時代>を所有していた。
その藩領は、寛文4<1664>年に半減(30→15万石)上知<幕府直轄領へ>され、失った。
第3代藩主・綱勝が無嗣急死した際、外孫(姉の嫁ぎ先=高家旗本の吉良家長男)・綱憲が家督相続した事があった。改易処分相当のところを危うく免れたが、領地は半減した。
小鵜飼舟の積載上限は、ヒラタブネの3分ノ1乃至6分ノ1だから、高コスト・非能率から敗退しそうだが。背景はそう簡単ではない。
小鵜飼舟は、中流域から上流で運用することに特化した船=あえてオキタマブネと呼ぼう?
急流が多く・川幅の狭い上流域でも操作しやすいよう船腹が狭く・安全性に優れる特徴を備えていた。対するヒラタブネは、酒田衆が運用する中流から下流域に多用される大型船となる。
川の流れ(急流・水量の急変)・川床岩礁の有無・川幅の広狭など、同じ最上川でも上・中・下と流れが異なると、経済計算に優先する固有事情が存在した。
更に藩の所有船としたのは、実際の運用が民間業者への請負いによる委託運航であっても、用船配分上の不利益を回避する狙いがあったからであろう。
同時に藩所有のオキタマブネ?として仕立ることで、酒田衆からのボイコットを緩和しつつ。上流域=置賜から河口=酒田港まで、一貫運送するメリットを享受することが出来たはずである。
そこには下記に述べる事情があった。
オキタマブネ?=置賜衆は、最上川舟運における最後発の参入組として登場した。
最上川が太古から存在しながら、舟運が河口の酒田港から上流の米澤まで一気通貫したのは驚くほど遅かった。
元禄7(1694)年の事だ。
それまで、置賜地域からの酒田デビュウは無かった。
小鵜飼舟の登場は、更に後世で。黒滝開鑿から約60年超も経過した宝暦9(1759)年のことであった。
置賜・酒田港間の舟運を阻んでいたのは、五百川(いもがわ)渓谷にある黒滝の大難所であった。
この難所は、青苧を扱う上方商人=西村・某が実施する個人事業として開鑿された。
黒滝の大難所は、”筏流し”すら阻む存在であったかもしれない。
”筏流し”=木材の搬送は、一般に舟運より先行する。しかし黒滝を挟んでのそれは無かったかもしれない
どの川・業界もそうだが、長年の間運用されてきた慣行が存在し、後発参入組は阻害されやすい。
その点でオキタマブネを藩所有=非民間の船とするアイデアは、ホームランであったに違いない。
最後に、船名の由来と漁撈としての鵜飼との関係を考察しよう。
これもまた結論を急げば。よく判らない。
小鵜飼舟・阿武隈川で2語検索すれば、江戸の商人渡辺・某が、長良川より導入云々などのウィキ〇〇記事にぶつかる。実に疑わしい?
鵜飼すなわち長良川とする ワンパターンの常識か?
中公新書に「鵜飼」なる著作がある。それによれば、列島中に”鵜”に因む地名が50以上・鵜飼が行われた地域が150以上あるとのこと。専業鵜飼も勿論だが、半農半漁が多かったようだ。
しかも漁撈としての鵜飼に、船は必要ない。徒渉鵜飼なる武家社会の軍事調練的なそれでは、船に乗らないと言う。
鵜飼も鷹狩りも本来は、権力者の独占管掌であったらしい。後世武家が実力で権力の座を占めるようになってから、鵜飼も鷹狩りも意味合いが変った。
長良川の鵜飼は、御三家・尾張徳川の行事。そもそもの由来は、宮廷に古くから伝わった”見せ鵜飼”だ。
ショウ的要素が強いから、演出に拘って。夜にかがり火を焚く・大河に大船を浮かべるなど。見せ場が強調されたらしい。
穫れた鮎などは、寿司に加工されて。地域名産の珍味として重用される贈答品となった。
鵜にまつわる神事が能登にある。能登一宮=気多神社の鵜祭である。
民俗学渋沢敬三が,早くに紹介している。七尾湾口・鹿島岬・鵜浦で捕らえたウミウを神の御贄として神前に放つ行事である。
この神社の立地や”ケタ”なる音などからして、韓半島との密接な繋がりが伺われる。
「鵜飼」の著者=歴史民族・地域史研究の可児弘明氏は、鵜飼が中国大陸から東南アジアにかけて広く行われている事を述べ、稲作伝来との深い関連を主張している

最上川小鵜飼船と船頭衆の生活―河川交通の原点

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鵜飼―よみがえる民俗と伝承 (中公新書)

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