おもう川の記 No.30 ホリカワは舟の通り路

このタイトルで書き始めたのは、1月からだ。
今日が30号だからと言って、格別のことも無いが・・・・
時々に周辺事態の交通整理をしておくべきであると考える。
書き始めの構想では、いずれ”最上川”のことを書く。その準備として・周辺部・境界を明らかにする必要を感じて、”最上川”の分水嶺における逆サイド=つまり共通する山筋の反対側斜面を下る川の調査に着手した。
ありていに言えば、この「おもう川の記」は、メインテーマたる『もがみ川感走録』を書くために、周辺河川を調査した過程を記録する=”山の彼方(やまのあなた)メモ”に過ぎなかった。
その「もがみ川感走録」は、8月から稿を起こしている。
それで、「おもう川の記」はどうすべえ?・・・
そもそも、ドキュメントなのか?フィクションなのか?
自問自答して、戦略再構築の礎に据えようとしてみた。
この2〜3日乃至4〜5日は、寝つきも寝起きもノン・クリアーで推移したが、決着はつかない。
これまでは、まず事実を踏まえ・次に想念に浮かぶことを記録した=言わば、ドキュベ−ス・オンフィクショナル=要するに、いわゆる合いの子だ。
それにタイトルが、漢字でなく・仮名の”おもう”を選んだ意味も、考え直してみた。
もう”最上川”には絡めないで、”合いの子”で行こう。おんぼらあとそうおもっている
”おもいつく”まま・足が届く限り、多くの川を訪ね・調べて・書くペースは続けたい。と今は考えている
閑話休題
なので、思川や小見川のことは書かない・・・・「おも」音に絡めた笑い話=脱線です。これからも突然に脱線することであろう
今日の本題に行きましょう
テーマ『ほりかわ』について考える
”ホリカワ”を漢字で書くと堀川・堀河。京都にありそうな町名?
ぼんやりとテレビを見る癖がある。芭蕉の旅を採上げていた。奥の細道である
新潟県内にも堀川があるが、芭蕉一行が陸路を歩いたか・川堀に浮かぶ舟を利用したかが未だにはっきりしない。
俳聖は、陸路ばかり徘徊したと、漠然と想っていた。が・・・
時に珍しい水路に踏込み、川を舟で下るからこそ。
世界に冠たる紀行文学の高みに達するのだ。
奥の細道なるタイトルからして。越後路(=つまり東北でない)を足早に通り過ぎたのは、至極当然であるとも言える。
あえて越後路に拘れば、佐渡ヵ島と天の川と荒海が唄われている。のみ
さて、芭蕉とその門弟曾良が、越後路通過に要した日数は下記のとおり。
元禄2(1689)年の夏<旧暦の6〜7月>である。 ・・・ 角川文庫 新訂おくのほそ道 附・曾良随行日記(初版昭和42年角川書店)より 
奥の細道では、9日を要し。
曾良随行日記、14日とある。
インデックスに置換えると、芭蕉=64  曾良=100。
前者は、フィクション。  文学作品に虚構は付きものらしい。
後者は、ドキュメント。  こっちは刊行予定すら無い・単なる個人メモ?
師と弟子の力量差ではない、虚構文学として世に出す意志の有・無の差であろう?
筆者の関心を村上と新潟の間に絞り込む=曾良随行日記ベースで
乙宝寺に参詣した日に”つゐ地村”<現・胎内市中条町築地>に泊まり・翌日はもう新潟に投宿している。
経路は不明ながら、上記2点間の直線距離(海中を避ける)は、概ね30〜40kmであろうか?江戸時代の旅人なら ほぼ1日の行程。
ここで念のため、他の資料に当るべしと思い。図書館に出向き、新潟県史〔通史3・777頁〕を読んだ。
2点間の経路として徒歩・舟路の2説あるが判然せず。とあった<抽出意訳>。
当時堀川らしき内水面航路が存在したことを知った。正保4(1647)年越後国絵図を踏まえた略図<第4章第5節・図148>も付いていた。
地元の新発田市にも問い合わせたが異なる知見は無かった。進展の乏しい課題のようである。
その堀川がある新潟県の北部は、いわゆる阿賀北、揚北とも書く地域である。
この地を芭蕉曾良も何らの感慨も述べず・すみやかに通過した。後世通過したイザベラ・バード女史もまた、殆どそうした。
筆者の関心は、江戸中期頃にあった堀川が今どうなっているか?へと変った。現存しないかも?漠然とした不安もある。
残っているなら名称があるはず、まずその名を知りたい。
そこで、県の河川管理担当部署に電話した。
道路と河川の管理分担がどうなのか?部外者なのでよく判らないが、異なる部局らしい2人が電話口に出た。当方の言葉尻から近い将来、訪ねて行きたいとの意向が漏れていたかもしれない。
結論はこうだ。当時あったかもしれないが、現況となればよく判らない。
どんぴしゃりのセクションに行き着いてない感はあるが。ほぼ空振り三振である・もうカワホリは失われた?・・・
次に、いつ?どのような経緯で消えたか?を知りたくなった。
タテ割り行政はそんなものであろうか?ホームページのPRだけはしっかりされたようだが・・・・電話のビフォー&アフターで、何ら前進は無かった。
ここでつい脱線。
行政官の関心は専ら予算獲得と消化にあるらしい。過去の建設作業(則ち破壊行為)を積極的に忘れ、事務効率化に寄与すべく?気づかないソブリを貫ぬく吏僚ぶりであった。
さて、そろそろ纏めに入ろう
まだ手がかりはある、地形図だ。
地図もグーグルも、苦労する割には決め手に欠けるもの。長丁場は避けられそうも無い。
先に京都・堀河の地名が出たが 森鴎外の作品で有名な高瀬川も実は堀河である。
その意味は、掘削された人工の川。堀川・河堀のありようはさまざまである。
元々存在した小川を拡幅する・原野に溝を構築し低地に水を溜めて川にする・自然にある2つの川の間を繋ぐなどなど。
いずれ掘るが。さて小川と川は、どう違うのだろうか?
人工河川でも完成後10年経過したら、ほぼ自然の川と区別がつかない”河堀の様相になる”ことであろう。
さて、荒川と信濃川との間を繋ぐ内水面航路=”ホリカワ”は、自然に形成された内陸部の水面であったと考えるのが相当であろう。
荒川畔を出発した川船は、たまたまそこにある胎内川<現・旧河道>や塩津潟(地元では紫雲寺潟とも呼ぶ)、加治川・島見潟?・阿賀野川・通船川・信濃川を繋ぐようにして<海路に拠ることなく>、新潟湊に達することが出来たようだ。
この堀川には、川船乗りの仲間うちで通用する決った呼名があったに違いない。
その内水面が消えたか・航路として使われくなって長い時間が経過し・忘れられたのであろう? 筆者はヒットできてない。
筆者は、右岸・新潟市信濃川河口と荒川河口=左岸・桃崎浜の間を通ったことがある。
概ね40kmくらいの距離であろうか?無意識ながらマイカーで何度も往復し・陸地側から越佐海峡を眺めた記憶がある。
この2つの大河川が挟む日本海岸に、自然河川は全く存在しなかった。と言えば、信じてもらえるだろうか?それは但し、芭蕉一行が通過した時代のこと。
内陸に多数の川と潟・湖がある地域だが、海岸沿いに走る高さ20〜30mの砂丘の連続地形に阻まれ。降雨後の悪水排出が困難な氾濫原状態が長く続き、農業もままならない環境だった。
舟運事情を比較してみよう。海岸線幅は40kmだが
まず海上航路、海路経由だとほぼ倍くらいの80km程度に膨らむであろう。海が大荒れの時、海路は当然に休航となる。
その時活躍するのが、堀川舟運である。極論すれば、365日24時間の運航も可能だ。だがしかし距離は、120km以上にもなったろうか?
堀川舟運は、既存自然水面を繋ぐだけの紆余曲折水路だから長くなるのが当然。
海路経由のほうが短いのは、ほぼ2点間直線をベースにした理想曲線を形成するからこそである。
以上が今日の予定稿である。
知ってのとおり、人工掘割は、運河とも言う。
有名なスエズパナマ芭蕉一行が通ったであろう阿賀北・内水面航路(=仮称)も、ともに運河である。
スエズ&パナマ両運河は、大洋と大洋を結ぶ。スケールが段違いに大きい。スエズパナマも人工掘割と自然湖潟の組合せ水路である。つまり自然活用・自然破壊の併用。
スエズ運河の両端は、大洋<大西洋=地中海と紅海=インド洋>の間に水面差が無い。水平タイプの運河である。
他方パナマ運河は、大洋<太平洋とカリブ海=大西洋>の間に水面差がある。通過船腹1艘ごとにロックゲート<長さに限りあるので複数回となる>を開閉して、水面高低差を解消するため注水・排水を行う。
列島内運河は、筆者の知る限り、なべてスエズタイプである。
列島内にある運河で知られるのは、上掲の高瀬川利根川水系仙台湾に沿って阿武隈川北上川を結ぶ貞山堀が大きい。明治以降の琵琶湖疎水・安積疏水などがある。
貞山堀の創案・推進者は、伊達政宗である。最上義光と並ぶ東北の英雄と呼ぶ所以である。
脱線序でに、今後のアクションプランを述べておく。
まず、阿賀北・内水面航路(=仮称)が失われ・もう存在しないことを現地で確認する。
次に、失われた時・空域の見極めを行いたい。
空間域は、上掲のとおり信濃川・荒川の2大河川間40km(=日本海岸の幅)に収まるはずだ。
そこに芭蕉通過後6つの人工放水路が建造されている。
その工事の際に、仮称=阿賀北・内水面航路の一画が壊されていないかどうか?を調べたい。水路も道路も全通状態=機能の連続が前提であり・一画でも壊されれば機能は消える。
時間軸は、6つの人工放水路の工事期間の中に収まるはずだ。
最古の開鑿事業である1721(享保6)年の落掘川<塩津潟の湖水放流>から1947(昭和42・前年とも2年連続大被害)年の羽越水害・復旧工事までの約230年間が想定される。